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エッセー拾遺 ― 文芸誌のコラムから  作者: 坂本梧朗
1990年代

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第22説 社会派宣言

             

 私の詩は生活を母胎としている。生活のなかで生まれる発見、感慨、あるいは生活自体への批判、嘲笑、願いなどが私に詩をつくらせる。生活している自己、及び他者の姿もまた私の詩の素材だ。

 生活の基軸は生命の生産と再生産であり、生産と消費を二極とする物質代謝活動である。具体的には職場、地域、家庭などで日々展開される労働や娯楽や休息などの諸活動である。人々はそこで様々な人間関係を取り結び、その人間関係こそが人々の意識内容の核を形成している。

 つまり生活とは本質的に社会的なものであり、生活を母胎とする私の詩も当然に社会的なものとならざるを得ない。無意識的に生活を反映している詩は多いが、私は詩と生活とのパイプを意識的に開いていたい。詩が生活と太いパイプでつながっている限り、私は詩が衰退することはないと思っている。生活は生命活動そのものだからだ。詩の蘇生を論ずるとすれば、その第一の根本的な条件として詩と生活との結合を言わなければならない。 生活は実に豊富な内容を含んでいる。それはまことに汲めども尽くせない。従ってそこから生まれる詩も千差万別、多様なものとなるのは当然だ。しかし私の書く詩にはやはり一つの傾向性があるだろう。私に限らない。誰でもそうだ。それがその人の詩風となり、作品世界となる。その差異を形成するのは作者の生活を見る目の角度である。それを思想性と言ってもいいだろう。それでは思想性とは何か。思想性とは端的に言えば作者が生活に対して抱いている要求である。同じような要求でも様々な質の違いがあり、それが生活を捉える角度を微妙に変化させる。それでは私は生活に対してどんな要求を抱いているのか。内省してみると、抽象的な表現になるが(包括的に表現しようとするとどうしてもそうなるのだが),人間としてたっぷりと豊かに、そして真実に生きたいという要求になるようだ。従ってこれが私が生活を眺める際の角度となる。この要求が生活のなかでどれだけ実現し得、あるいは実現が阻まれているか、私はそれによって嘆いたり、怒ったり、喜んだりして詩をつくることになる。だからこの要求こそ私の詩の源泉なのだ。私は生活へのこの要求を更に強く、大きく、鋭く、育てたいと思う。詩の蘇生というテーマに関連させれば、この生活への要求を強めるということがその第二の条件となろう。

 現在、生活上で進行している変化は決して望ましいものではない。自然環境の破壊は我々の生活を基底的におびやかしている。我々はきれいな大気や水、自然との豊かな交流を享受しがたくなっている。膨大な種類と量の商品を生産し消費する体制の確立は、生活を便利で機能的にした反面、どの人も同じような行動をするというように画一化し、人間同士の接触を希薄にして、人々を孤立化させている。売れればよいというコマーシャリズムは文化のすべての面に浸透し、人間にとって価値あるものを見失わせている。このような状況のなかでは我々の人間的本質も貧困化し,生活に対する要求も低下せざるを得ない。孤立化した人間は生活への関心を失い、自分だけの幻想的な小宇宙にこもり、彼が詩人であればその中で詩作を試みるようになるだろう。それは詩を衰退させてきた道を再びたどることである。(ここで言っておきたいことは、詩作を詩人の慰め、カタルシスに止めていてはならないということだ。確かに詩にはその作用があり、創作の動機の一つをなしているのは事実だが、そこに止まっている限り、必然的に詩を小さな枠の中にとじこめて、社会的な広がりを喪失させ、詩を衰退に導くことになる。)だから詩をそのような袋小路に追い込む作用をする生活状況の変化を阻止するために闘うことも、詩を蘇生させる条件をつくることになるだろう。詩人がこうした現実の状況と闘うことは、またその詩人における第一と第二の条件を強めることになろう。今や詩人は社会的に行動することが必要なのだ。 結論として言えば、詩は社会的でなければならないということだ。「個人的」と対立する意味での「社会的」ではなく、個人を包みこんで、むしろ真に個人的であるためにも社会的でなければならないのである。人類は二本の足で立ったその時から、孤立的ではなく協同して労働し、その労働のなかで言語を生み出し、文化を生み出し、自らを人間として形成してきた。人間自体が社会的産物であり、人間は本質的に社会的存在なのだ。この原点に詩はしっかり立脚しなければならない。詩が衰退してきたとすれば、その最大の原因は社会性の喪失にある。狭い枠の中でのみ通用する言語操作に熱中しすぎたからである。

 確かに日本の詩歌の歴史を見ると、「万葉集」と近代以後の一部をのぞいて、日本の詩歌は社会性に乏しいようだ。和歌は「古今集」から「新古今集」までの発展において、貴族階級の知的部分の専有物として洗練純化され、「新古今集」において、進展する時代と社会に背を向けた知的貴族の文化的嗜好品として完成された。それは様々な技巧をこらし、先行する言語文化を巧みに取り込み、手際よく凝縮した知的モザイクである。それは和歌の世界について一定の知識を持っている者のみが理解できる専門的対象であり、当時の文化的貴族の狭小なサロン内における知的愛玩物だった。そしてこの流れが日本の詩歌の正統的伝統とされてきたのである。明治になって正岡子規が「万葉集」を賞揚することがあったが、日本の詩歌は全体としては現代に至るまで社会性に乏しいままである。現代詩においてはここ数十年、「新古今集」の昔に先祖返りしたような、言語操作によるモザイク詩が「詩壇」でもてはやされ、それが中央集権的な文化構造とマスコミによって現代詩の主流として流布された結果、今日、現代詩の「衰退」と呼ばれるような現象をもたらしている。

 現代はもちろん「新古今」の時代とは違っている。個々人の生活は、「画一化」「孤立化」という歪みを持ちながらも、大量商品流通のルートに乗って社会化されてしまっている。その上、豊富な情報伝達によって(マスコミ操作による欺瞞的情報が多いとしても),人々は自らの生活を社会的な連関のなかで意識せざるを得ない。私が言う詩の社会性とは、政治的事象や社会的事件を書くというような素材の問題ではなく、対象へのアプローチの仕方における社会性である。対象への社会的アプローチを欠く作品は今後ますます人々の心を打てなくなるだろう。その意味では現代こそ日本文学史における対社会閉塞的伝統を本格的に打ち破る時代なのだと言える。


 

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