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エッセー拾遺 ― 文芸誌のコラムから  作者: 坂本梧朗
1990年代

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第Ⅰ9説 水泳を始めて六年……

 水泳を始めて六年ほどになる。友人の奥さんがスイミングスクールに通っていたのがきっかけで、私もその友人と一緒にスイミングスクールに入ったわけだ。それから転居などもあって通う施設は三回変ったが、泳ぐことは現在まで続けている。現在の施設に変ったのが一年半ほど前で、しばらくは自分勝手に泳いでいたが、ただ泳ぐだけでは物足りなくなって、毎週定時に行われるレッスンを受けることにした。基礎Ⅰ・基礎Ⅱ・基礎Ⅲというコース立てになっていて、本当に泳ぎの基礎から教えてもらった。毎週二回、何とか通い続けて、四ヶ月余りで基礎課程を終えた。その終了証は、空手初段の免許状と同様、私がスポーツに励んだことを証する大切な記念物である。それから「泳法」というコースに入って泳ぎを本格的に学ぶようになった。週二回、二人の先生からそれぞれクロール・背泳・平泳ぎ・バタフライを習っている。このコースに入ってもう半年以上になるが、なかなか奥が深く、どこまでいっても「卒業」は来ないような気がする。各部の動作それぞれについて習得すべきことが次々に出てくるのだ。へぇーそう、という感じだ。お陰で私のクロールも改善されてきたようで、二五メートルを無理をせず二十二、三秒で泳げるようになった。さらに二十秒を切れるようになれば素晴らしいのだが。

 昨年末の二九日には一年間の泳ぎ納めとして「スイムマラソン」が行われ、私は二十五メートルを四十秒間隔で一時間、九十回往復する種目に挑戦した。距離としては二・二五キロを泳ぐわけである。不安はあったが、毎週サボらずにプールに通っていた賜物だろう。そんなに苦しくもなく完泳することができた。その「完泳証」もまた私の宝物の一つである。

 これだけ続けることが出来たところをみると、やはり私と水泳は相性がいいのだと思う。確かに水中で感じる自由感・解放感が私は好きだ。生命は水中で発生したというが、そんな生命の始源に回帰していくような感覚が水泳のなかにはある。それはやはりいい。もちろん、窒息が代表するような水の脅威を感じることも多いけれども。

 実は私がプールに通い続けるのには相性の他にも理由がある。むしろこの方が主な推進的動機と言えるだろう。それは健康管理だ。私は肥満しており、三年前に入った人間ドックで糖尿病の境界型という診断を受けている。父は糖尿病の合併症で亡くなった。だから私にとって運動不足の解消と減量は死活的な意味を持っている。プール通いは糖尿病との闘いの重要な一環なのだ。

 フィットネスクラブが各地に出来ている。それはそういう人為的な施設に頼らなければ、人々が健康を維持できなくなっているという事態を示すものだ。そういう施設を利用しない人でも、ジョギングなり早歩きなり、何らかの意志的努力をしなくては現代社会での健康管理は困難だ。お金も使わず、それほどの意志的努力をせずとも健康を維持できる社会こそ高度の文化的社会なのだが。


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