第11説 ある光景
所用で名古屋、京都を旅した時の出来事である。京都では例によって朝から市内をあちこちと忙しく廻らねばならなかったのだが、昼を過ぎ、もう一個所を残したところで空腹を覚えた。それで蕎麦屋に入って腹ごしらえをすることにした。場所は四条通りに面した南座の並びで、南座よりも祇園に近い位置に立つ三階建ての建物である。私は名物のニシンそばを、妻はニシンが嫌いということでうどんを注文した。
私は受持ちクラスの生徒の事で気にかかる事があり、せっかくの旅の間中、不安な、鬱屈した精神状態でいたのだが、蕎麦屋の椅子に座った時点で、既に旅の時間の半分以上をそんな気分で過ごしてしまった自分に腹立たしさや失望のようなものを感じていた。またそんな苦悩を自分に強いる境遇に呪詛に似た感情を抱いてもいた。
ニシンそばにはこの地での学生時代の思い出があった。家庭教師をしていた小学生の家が蕎麦屋で、時間が終ると夕食を出してくれるのだが、それがニシンそばであることが多く、うまかった。それで「ニシンそばを食べよう」と私が言って、目についたその蕎麦屋に上がってきたのだった。
注文を終えて窓の下を見ていた妻が、
「ちょっと見てん」
と目配せをした。私達は三階に座っていたので、四条通りの雑踏は窓から見下ろす位置にあった。足許の通りも向い側の通りも多くの人が流れていた。妻の目は向い側の通りを眺めている。見ると毛糸が解けかかったようなセーターを重ね着して、藍色の汚れたスカートを引きずるように穿いた女が、雑踏の間を行きつ戻りつしている。髪はボサボサで、何をしているのかと見ると路上の吸殻を拾っているのだ。浮浪者だった。まだ若い。三十代半ばぐらいだろう。私は人々が女を避け、見ないようにして歩いているのを眺め、また女は女で人々を無視して動いているのを眺めた。そして浮浪者の女の内面を思った。さっきまで私はあの雑踏の中に居たのであり、他人どもの洪水のなかで、自分の、或いは妻をも含めた自分達の孤独を時折り意識したものだ。普通の境遇の人間でも都会の雑踏の中ではそんな感じを持つのだ。その女のように社会からドロップアウトしてしまった人間の場合はどのように感じられるだろうか。恐らく女は自分と通行人達とを隔てる鉄壁のような絶縁帯を意識しているだろう。それは通行人達のほとんどが女を自分と同じ世界の人間とは見ていないことの反射だ。それは孤独というような生ぬるい感情ではなく、全く無関係という乾き切ったヒリヒリするような意識なのかも知れない。
妻のうどんが運ばれてきた。妻は食べ始めた。私はまた受持ちクラスの生徒に関する不安な思いに捉われ始めていた。やがてニシンそばが運ばれてきた。私達は時々浮浪者の女の方に目をやりながら麺を啜った。
「あっ」
という妻の声に私は通りに目をやった。歩道から車道に下りていた浮浪者の女が、路上で排尿を始めたのだ。足を少し開き、腰を落して前屈みになり、自らの股間を覗きこむようにして排尿している。足の間に勢いよく落ちる尿が白く光っている。黒いしみが女の足元から緩やかに広がる。不快感が私のなかで盛り上がった。それは吐き気と脱力感となって体に広がった。人々は排尿する女を横目で見ながら眉を顰めて通り過ぎていく。女は自分の尿と向き合って動かない。人間であることがこの女のなかで崩れたのだと私は思った。いや、それは今崩れたのではなかろう。浮浪生活のなかで既に崩れていたのだろう。都会の群衆の中での孤絶感は女の人間意識をすり潰してしまったのだ。自分の尿を眺める女の自意識を私は思った。
お茶を注ぎに来た店員に私は女の浮浪者のことを尋ねた。
「ええ、半月ほど前から居はりますねん。まだお若いようやから頑張らはったらいいのにね。言うことはなかなか立派なことおっしゃいますねん。私らがこの辺りをうろついてもろたら困ると言うたら、ここはあんた方の私有地やないんやから、そんなこと言われる筋合いはない、ときっぱり言いはりましたわ」
五十年配の女店員は淀みなくしゃべる。
「さっきそこで尿を」
と私が通りを指すと、
「そうどすねん。あっちこっちでおしっこしはりますやろ。それが困りますねん」
と女店員は眉をしかめた。
浮浪者の女が自分の権利を主張できる知能を持つ人間であることが私の心を一層暗くした。知能が高いほど、味わう絶望感や苦悩は深いはずだ。私は女が味わったに違いない絶望を思った。私も生きる苦しみを様々に味わっている。何とかそれらをやり過ごしているが、何かの折に忍耐の弦が切れるかも知れない。そうすれば私もあの女の境遇に落ちこむことになるかも知れない。その時世間は私に対して、あの女にしたと同じように眉をひそめることしかしないだろう。私はそんな事を思った。
受持ちクラスの生徒に関する気がかりな思いがまた胸に浮かんできた。ニシンそばの後にざるそばでも食べるつもりだったのだが、食欲もすっかり無くなり、全く寛げない気分になってしまった私は、妻を促して席を立った。




