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エッセー拾遺 ― 文芸誌のコラムから  作者: 坂本梧朗
1980年代

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第10説 認識者と表現者

  

 詩人は認識者であり、表現者である。詩人は認識したものを表現するのであり、また、表現することによって認識するのである。概してどの分野であれ、文化に携わる人は認識者と表現者という性格を持つようだ。これは文化というものの本性に根差しているように思える。

 それでは認識とは何だろうか。それは主体が対象について得る種々の情報である。それには対象の本質に関わるものもあり、対象の一部あるいは表層にしか関わらぬものもある。兎は亀より足が速い。これは誰でもが容易に掴める情報である。つまり表層的な情報である。これに対して、兎は高慢で怠惰であり、亀は実直で勤勉であるという両者の性格に関するそれは誰でも手に入れることのできる情報とは言えない。それは対象により近く、より深く接して初めて得られるものだからだ。しかもこの情報は両者の行動を規定する重要な情報であり、その意味で本質に関わる情報と言える。事実この情報を摑んでいなければ、兎と亀を競走させた時、亀が勝つという一見不合理な、その実極めて的確な予測は立てられないのだ。(兎と亀の性格記述はあくまでも寓話「兎と亀」に登場する兎と亀に関するものであることをお断りする。)言うまでもなく詩人の場合の認識は表層に止まるものではなく、対象の本質に達しているものであることが望ましい。

 それでは詩人はそのような認識をどのようにして得るか。

 道は二つある。知性的な道と感性的な道である。知性的な道とは対話や読書、研究、調査等をもとにした自己の思考によって対象の本質に迫る道である。一方、感性的な道とは直観による対象の洞察である。どちらの道もそのベースにはその人の資質とともに実人生における体験があることは言うまでもない。この二つの相乗作用によって詩人は認識に至る。つまりより深い認識を得るためには詩人は知性と感性を常に磨いていなければならないということだ。逆に言えばこの二つの資質に恵まれている者こそ詩人たるに相応しい人間なのだ。

 さて次は表現である。いかに深い優れた認識を得たとしても、それを詩として表現できなければ詩人とは言い難い。詩を書かなくても詩人の精神(スピリット)のようなものを持っていれば詩人だという考えもあるようだが、そしてその言わんとするところも理解できないことはないが、剥き出しの酒精(アルコール)そのものは飲めないように、芸術は人に享受され得る形、つまり作品となっていることがその成立の基礎条件だと思う。従って作品を作り上げる者をこそやはり芸術家、ここでは詩人と呼ぶべきだろう。

 自分が掴み取った認識を正確に印象深く読み手(享受者)に伝える。伝えると言うよりはその認識に心から同意させる。ここにはまた別の能力―表現者としての能力が要求される。詩人は表現力を常に錬磨しなければならない。この分野には歴史的に様々な理論や試みが蓄積され、現在も探求されている。それらを参考にすることも大切だろう。しかし自分の認識の傾向や内容に合致した表現方法は、あくまでその詩人自身が見出さねばならないものである。


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