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エッセー拾遺 ― 文芸誌のコラムから  作者: 坂本梧朗
1980年代

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第9説 志賀直哉雑感 

  

 私の所属している詩誌『沙漠』の代表幹事の麻生久氏から三ヶ月ほど前、蔵書の岩波新書版『志賀直哉全集』全十七巻(昭和三十年~三十一年刊)を頂いた。思いがけぬことで恐縮した次第だが、有難く頂戴した。志賀直哉という作家にはあまり関心を持っていなかったが、せっかく全集を頂いたので読んでみることにした。

 私は鉄道で通勤しており、片道一時間はたっぷり(待合時間を除いて)電車に乗っている。その往復の二時間ほどが(と言ってももちろん全部ではないが)読書の時間になっている。志賀直哉もこの時間帯に読むことにした。

 第一巻から順に読んで、現在第四巻を読み終えたところだ。一巻から五巻までは短編集になっており、作者二十一才時(明治三十七年)の執筆である「菜の花と小娘」から、七十三才時(昭和三十一年)の「白い線」までが収められている。第四巻までについて言えば、五十八才時(昭和十六年)の「淋しき生涯」までの収載だ。

 以下、第四巻までを読み終えたところでの感想を述べてみたいと思う。

 〇視野=作品世界の狭さ。作品の世界は殆ど身辺に限定されており、その徹底ぶりは見事なほどだ。志賀直哉は自分が見たもの、経験した事しか書かないと言っていい。自分と家族、そして友人、知人の世界、これが志賀文学の世界だ。この圏外の事象は作品から締め出されている。

 〇実生活と作品世界の直通。作品に虚構性が希薄で、実生活を殆どそのまま作品にしている。主人公は常に作者その人であり、自己の生活をそのまま作品化している点で純粋な私小説作家だ。例えば一つの小説を書いたことが他の小説の中で材料となり、それを書いた事情、その時の気持までもが述べられている。その二つの作品が一冊の本になって収まっているのは奇妙な感じだ。(小説の種明かしとしては面白いが。)実生活と作品世界の密着は殆ど日記並みと言っていい。

 〇思想性の欠落。書かれているのは主人公の個々の具体的な見聞、行動とそれに対応する感情、判断、感想のみであり、事物の思想的検討、普遍的価値探求の志向などは全くと言っていいほど見られない。読者は主人公の刻々の行動、感情は理解できるが、人間としてはどんな人間なのか、つまりどんな価値観、志向をもっているのかは把捉できない。現象をいくら重ねても本質とはならないように。

 〇自己のその時々の感情への固執とその正確な表現への執心。それが不善であろうが醜かろうが、偽らずに書こうとする。これは、真、つまり自己を偽らず赤裸々に描くことを重んじた明治期の日本自然主義文学の精神を引き継ぐものだ。志賀直哉は白樺派の代表的作家だが、彼の内部には自然主義の文学精神が脈打っていたことになる。

 総じて、自己とその周縁にのみ目を注ぎ、それより外側の世界には無関心、従って無知だった作家のようだ。自己への関心もその感情、感覚的方面に集中され、理性による自己存在の客観的検討、客観的把握の思考は見られない。

 浮かんでくるのは極めて自己中心的で、他者(生活圏外の者)に冷淡(無関心)な、しかも動物的(思想を持たず感覚だけで生きる)な作家像だ。もちろんこれは作家像であって、志賀直哉その人の人間性を言っているのではない。

 以上述べた志賀文学の四つの特徴を短い言葉で表せば、身辺性・無虚構性・無思想性・感情、感覚への固執、ということになる。これを志賀文学を評価する人が言えば、実際見聞したもの、また自己の真実だけを正確、正直に表現したもので、ウソや観念的おしゃべりがなく、具体的、描写的、つまり小説的だということになる。この見方で志賀文学を評価する人が多いのだが、実際読んでみて、文学としての奥行き、幅の無さの感は否めない。確かに老年期に入ってからの作品には枯淡な味わいがあるが、それは生理的な老いに主として由来するもので、文学的、思考的深さとは別物だ。

 この作家が「小説の神様」と呼ばれて高く評価され、日本の近代文学史に巨匠としての地位を得ていることには注意を要する。つまり志賀直哉文学の特徴は彼をそのように評価、受容する日本近代文学そのものの特徴と重なっているのだ。

 志賀文学の四つの特徴は現代日本のなかにも生きていると私は思う。文壇=商業マスコミに登場してくる若い書き手たちも、新しそうな装いの下にこの「伝統」をしっかり把持しているようだ。


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