イギリスがテレビ審議かあ、こういうところだけは
世界の先端を走ってるのに、肝心な点はなんで旧弊なのかがよくわからないせみころーんさんですーどーもーとととととととて。
700年の伝統を誇る下院でテレビ審議。もちろんアメリカの裁判所はテレビに全部映すんですけど、テレビ電話で全部やっちゃうってのはきいたことがありません。
もちろん、緊急時ですからあ、こういうことをして当たり前だってのが白人の論理なのですが、、、
黄色人種の論理は、、こうじゃないんですよねえ。
なんでなんでしょうね。
黄色人種は、緊急時であっても即対応するってことがどうしてもできないんですよねえ。こんなこと言うとサベツガーとかいうのが異世界のどっかにいますがほっときましょう。
黄色人種だと、ちょっとまってくださいとかいって先延ばし、黒人同士だとなぜか取っ組み合いの喧嘩、白人だけなんですよ。これできるの。
こういうの見せつけられちゃうと、どこがアジアの時代だといいたくなるんですよ。(どんっ!)
「どうしてもアジア人はコピペから始まるので、どうせ一人の力では立ち上がれないだろう」とくさしていたのがアドルフ・ヒトラーでした。しかし、ヨシフ・スターリンは「奴らを甘く見るな!」と釘を刺したそうです。
ほれ、昨日ちょっとニュースが駆け巡ったキム王朝の最高指導者の重体説でも、NBCはもう不謹慎にも脳死判定を出してしまいます。
さすがに飛ばし記事で脳死なんて言ってしまうのはあまりにも不謹慎なので、どっかで裏を取ったのではないかと思われますが、即急です。
ニューヨークは3秒沈黙すると電話を切られるとかありましたが、あれに近い。とにかく真実を敏速に出せ、緊急時には即対応しろってのがあるんですよ。
ところが、これができる国家がいくつあります?
だいたい、即対応するっていったって、それは国民の同意を経てからやってるようでは遅いんですよ。ここらへんに民主主義の限界があるんだろうなってことです。
振り返ってみると、民主主義ってのはまだ株屋が口と手で取引をしていた時代で通用した論理だった、こんなこと言われちゃうんでしょうかねえ。
ころーんさんは朝ごはんの準備をしながら「時代の常識ってのは不可避に変わることがある」って言ってますが、人間社会が変えたくて変えてるわけではないんですよねえ。
変えたくて変えましたって文化は、即日劣化します。
日本は1950年代「左翼にあらずんば人にあらず」でしたが、西ドイツは「音列にあらずんば人にあらず」でした。
今のなろうの読者を含む小学生や中学生には難しい言葉遣いでした。「〇〇でなければ、人ではない」ってことです。
そうやってまるで「音列マフィア」とやらが闊歩した結果、25年で覆ってしまいました。この覆りに一番貢献したのがこの前亡くなりましたペンデレツキです。
あ、すりおろしりんごジュースどうもです。ベーグルですか。そうすか。
こと。
ちゅー。
あ、しつれいしました。
はい、んでー、どこの音楽史も「不可避に変わる」ってのがある時期突然変異のようにやってくるんですよねえ。
インドネシアも、いきなりオランダの人が悪魔のように攻め込んできてから、当然のようにガムランが変質したらしいのですが、なんと、二部合唱をやりだしてセント比で音律を計算しだしたというのです。
当然こんなのインドネシアの古来からの音楽にはありませんでした。しかし、ガムランも近代化しなきゃいけないよねって流れがなぜか突然起き、なんとも妙な二声対位法が生まれました。
五声のミサみたいなことにはならなかったらしいのですが、急に変わったんですよ。
日本もこれに似たことが起きます。お筝、ってのはまぁ弦楽器ですからピアノの内部奏法やハープ、ギター、ツィターと同じように扱えるわけですよね。
ということはピアノのイディオムも転写できるってので、新日本音楽の推進者はラヴェルやドビュッシーの音楽の模倣を筝でやりだしました。これはNHKのビデオ映像にもしっかり残ってます。
こうしちゃいますと、誰のために箏をやってるのかわからないという批判が来たそうです。
そうしたら、「前衛ネタを箏でやればいいじゃないか」って流れになったそうです。
そしたらですね、、「それなら洋楽器でも同じことができるし、何のための和楽器なんだ」とさらにツッコミが入って今に至ります。
こういう突然変異のように「変わってしまう」人、「変えてしまう」人ってのは生きてるとき不幸ですが、死後になるとなぜか神格化されます。
こういうの見てると、戦争がなきゃ音楽ってなんも変わらんのね、って呆れちゃうんですよ。アムパサンドさんは「戦争が音楽を作ってきた」っていってます。
これが真実ならダルムシュタットのコンセプチャル作曲の流行が示すのは、「もう音楽が作られることはない」「戦争ももうない」「独裁者はすぐくたばる」ということなのでしょうか。




