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駅員さんの恋  作者: 高藤みずき
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※ とある夫婦の日常。


★とある夫婦の日常。その1★



「嘘嘘嘘嘘ーッ、遅れるーっ!!」


 これはうっかり二度寝が敗因だ。傍らのぬくもりがあんまり気持ちよくて、最初のアラームを無意識に止めて、再び眠ってしまったのだ。うん。すみません、これはただの言い訳。


 ……大失態。


 結婚後はとりあえず駅員さんのマンションに住むことに落ち着いた。家族が増えたらその時また考えよう、という甘酸っぱい申し出と共にだ。このマンションは駅員さんがヴァイオリニストとしてかつて稼いだお金で買ったものらしい。


 アパートを引き払ってここに来たのはなんと結婚式後のことだ。それまではとにかく忙しくて引越しなどしている暇がなかった。挙式前日まで(そして挙式翌日も!だ)きっちり仕事だったのだから、編集長の容赦のなさもわかろうというものだ。まあ、仕事が遅いわたしが悪いと……言えなくもないけど。


 とるものもとりあえず、といった様子で玄関に向かうわたしを、駅員さんの優しい気配が追ってくる。


「襟が中に入ってる」


 笑いながら襟を直してくれて、ついでにキス。えと、どっちがついでだろう。


 蕩けるような笑みに、わたしも自然に笑顔になる。


「あ、ありがと。……何だか真哉さんのほうが新妻みたいだね」


 普通こういうのは奥さんの仕事だよね。駅員さんはそれに緩く頭を左右に振って応えた。


「遅れるよ」


 その言葉に腕時計に視線を走らせてぎょっとする。


「いっけない!! あ、ねえ真哉さん、今日は? わたしは多分終電ぎりぎりなんだけど」


 これはだから夕飯はどうする? という意味だ。


「僕も最後まで。じゃあ夕飯はテンペストにしましょうか」


「い、いいの?」


 それはわたしが楽チンだけれど。……いいの? それで。


 なんだかわたし奥さん失格なのではないだろうか。結婚したばかりなのに、手料理作ったのなんて数えるほどだ。


 ああ。考えただけで自己嫌悪。それを見透かしたように駅員さんがわたしの頭をそっと撫でる。


「家事なんて、その時々でやれるほうがやればいいと言ったでしょう?」


 言った。たしかに言ったけど、まさか鵜呑みになんてできないじゃない。だけど駅員さんは一度もわたしに無理をさせたことがない。叱るときといえば大体わたしが無理をしすぎたりしたときだけだ。これって普通? こんなに甘やかされるってどうなの? こんなこと誰かに相談なんかできない。こんな誰が聞いても贅沢な悩みを外でしようものなら、わたし絶対殺意を抱かれる気がするよ!! 幸せ者過ぎて。


「そういうことをさせたくて結婚したわけじゃないから」


 一緒にいたいから。駅員さんはふわりと笑った。……前から思ってるんだけど駅員さんって実は天使なんじゃないかな。


「だからたまにはデートしましょう」


 甘い甘い言葉に自分の顔が赤くなるのがわかる。その提案に否はない。


「う、……うん」


「行ってらっしゃい」


「行って来ます」


 もう一度触れるだけのキスをして、カッコよくて優しい旦那様に見送られながら、わたしはにやける顔を引き締めることに失敗しつつ駅に向かったのだった。




★とある夫婦の日常。その2★



 玄関を開ける音に、読んでいた本から顔を上げた。


 ただいま、と少し湿った空元気な声。そのまま洗面所に入って乱暴に顔を洗うような気配に何かあったことはすぐにわかったけれど、彼女が素直にそれを自分に話すことはないこともわかっていた。いつだって自分で全部飲み込んで、無理矢理消化する。何もできずそれを見てるしかできない自分が、いつも少し歯がゆい。


「ごめんね。先に寝るね」


 そう言って寝室に消えた足音はそのまま静まり返って、それきり出てくる様子が無い。今回は相当だな、と苦笑する。寝ている気配はない。


 しばらく待ってから本を閉じて、立ち上がった。それから彼女の好きなやや甘めのホットワインを片手に寝室のドアをノックする。


「咲紀さん?」


 返事は無い。それが返事だとばかりにそっとドアを開けると、布団もかけずベッドに突っ伏したままの彼女の姿があった。


 そっと近づいてサイドテーブルにカップを置き、ベッドの傍らに腰を下ろす。顔にかかっている髪を指先でそっと払うと、ぎゅっと目を閉じて嵐を過ぎるのを待つ子どもみたいな顔が覗いた。


「どうしたの、咲紀さん」


「……なんでもない」


 それが嘘だということはお互い承知の上。彼女の髪を撫でながら「僕にできることはある?」と問いかけると、泣きそうな目でゆるゆると起き上がった。


 ぺたりと座り込んだまま、やがてぽつりと呟く。


「ごめんなさい」


「どうして?」


「だって、好きなことさせてもらってるのに」


 だからこんな風に凹むことすら許せないのだろう彼女は。仕事を家庭に持ち込みたくないのだ。その証拠に普段の咲紀さんは殆ど愚痴らない。いつも笑顔でいようとする。こうなっても次の日には引き摺らない。切り替えることが大切な儀式だとでもいうように。


 僕に言わせればそんなに頑張りすぎなくてもいいのに。


「好きなことを頑張ってる咲紀さんが好きだよ」


 彼女はくしゃり、と顔を歪めて、そのままとん、と額を僕の胸に押し付ける。


「咲紀さん?」


「真哉さんは、わたしに甘すぎです!」


「そうかな? そうでもないと思うけど」


 こういう時こそ甘やかしてあげたいのにどうすればいいのかわからない。


「……ううう」


「咲紀さん?」


「ごめんなさい。わがまま、言ってもいいですか」


「いくらでも」


「——あの、その、……じゃあ、……ぎゅーって、して?」


 顔を上げないままのめったにしないおねだりに、そんなことはお安いご用だとそのまま彼女の身体を強く抱きしめた。しばらく冷えた彼女の身体を温めるようにしながら、少し落ち着いたらしい咲紀さんの耳元にそっと囁く。


「他には?」


「も、……充分です」


 あ、でも、と顔を上げた彼女の唇に素早くキスをすると、複雑そうに微笑んだ。


「お見通し?」


「咲紀さんが浮上するまで、何度でも」


 もう、と唇を尖らせて、赤くなった顔を隠すように再びしがみついてくる。


「情けなくて、ごめんなさい」


「情けなくなんかないでしょう」


「だって真哉さんはこんなことないのに」


「まさか」


 また凹みそうになる咲紀さんの頭にキスを落としてあやすように再び抱きしめた。


「凹むことは僕もあるよ」


「嘘! 見たことない」


「……まあ、凹んで帰って来ても咲紀さんの顔を見たらわりとどうでもよくなるので」


「——え?」


 本音だ。さすがに仕事で大失敗ということはないが、それでもうんざりするような客とのやりとりのあとはかなり疲弊することもある。ドロドロとしたものを抱えたまま帰宅したことは何度もあったけれど、その度彼女の笑顔で癒された。


「……嘘でも、嬉しい」


「嘘じゃないよ」


 咲紀さんは僕の言葉に耳まで赤くして、身体を起こす。そして彼女はふとサイドテーブルのカップに気づいて口元を綻ばせると、まだ熱いはずのそれを両手で包みこむようにして吹き冷まし、湯気の向こうで幸せそうに笑った。


「いつもありがとう。……大好き」


 返事代わりに一度咲紀さんからカップを取り上げて、もう一度僕は唇を重ねた。


「真哉さんは……甘やかしすぎです。もっと厳しくしていいんですよ」


 僕からカップを取り返しながら、甘やかされることに慣れていない彼女は、いつもそんな風にいう。


「咲紀さんは自分に厳しすぎるから、このくらいで丁度いいと思うよ?」


 照れて言葉を失う僕の奥さんは本当にかわいい。


 ワインを飲み終えて、そのまま抱きしめているうちにストンと眠ってしまうのもいつものことだ。


 そっと布団をかけて、その頬に口づける。



「おやすみ」



 明日が彼女にとっていい日でありますように。




★とある夫婦の日常。その3★



 眠かった。


 精神的に少し不安定で、胃がムカつく。多分こんな症状は女なら毎月心当たりがある。ストレスのせいか忙しさのせいか、はたまた不規則な食事のせいか月のものが来たり来なかったりがわりと普通で、だからわたしはスルーした。してしまった。四ヶ月も。


 ――さすがにこれはおかしいと思ったある日、恐る恐る行った産婦人科の結果は大当たりで。素直に嬉しかった。本当に。心から嬉しかった。大好きな駅員さんとの赤ちゃん。でも次の瞬間思ったのは、思ってしまったのは、正直〝どうしよう〟だった。どうしよう。今は長期で休む、なんてとても言い出せないくらい仕事は忙しい。


 心当たりがないわけじゃなかった。少し前に仕事がタイトじゃない期間があって、妊活をした。でもそのときはダメで、そうこうしているうちに忙しくなってしまったのだ。……ダメじゃなかったらしい。


 どうしよう。どうしたらいいんだろう。考えても答えなんか出るわけがない。でも堕ろすなんて論外。だからわたしはそのまま、タイミングを計ったまま——いつものように仕事してしまったのだ。具合の悪いわたしを見ないようにして。


 馬鹿だ。本当に大馬鹿だ。わたしの体はいつもとは違っていたのに。


 校了明け。先に寝てるはずの駅員さんを起こさないようにそっと玄関を開けて、ああ家だ――、と思った瞬間意識がなくなった。気がつくとベッドに寝かされていて、駅員さんが心配顔でわたしの顔を覗き込んでいた。


「あれ? 真哉さん仕事は?」


 平気だよ、と優しくわたしの髪を撫でる手に、なぜか涙が滲んだ。ひとしきりわたしが落ち着くのを待って、駅員さんは今まで見たこともないような少し厳しい眼差しをわたしに向ける。


「一人で倒れるまで抱え込まないでくれないかな。そんなに僕は頼りにならない?」


 ふるふるっ、と首を振る。頼りにならないはずがない。どうしてこんなに優しいんだろう。ここは自己管理もできないのかと怒ってもいいとこだ。


 ただわたしは昔からいつも一人で決断する癖がついていて、相談どころのタイミングがわからなかっただけだ。答えなんか一つしかないのに。何だか色々情けなくて顔が上げられなかった。わたしひょっとして全然進歩してないんじゃない?


「咲紀?」と顎に手が触れる。その手の優しさがわたしに勇気をくれた。


「ごめんなさい。あのね。あの……赤ちゃんができたの。仕事は、辞めたくないの。でも産みたいの。どっちも諦めたくない。我が儘だってわかってるけど。ごめんなさい。ずっと相談しようとしてたのに、自分でちょっと考えすぎちゃって……ごめんなさい。ダメ、かな?」


 思い切って告げたら、なぜか駅員さんは肩を落としてため息をついた。ダメだっていわれても仕方ない。だってこんな倒れるまで仕事するなんてそもそも母親失格じゃないだろうか。後悔してもしきれない。心臓が不安でどきどきする。さすがに呆れさせちゃったんだろうか。嫌われちゃったんだろうか。この人以外にかけがえのないものを、わたしは知らないのに。


 死刑執行をまつ気持ちのわたしの頬に、駅員さんの唇が触れた。


「咲紀さん」


 促されても自己嫌悪に顔を上げられない。


「咲紀さん。顔を上げて下さい」


 多分このまま上げなければずっと駅員さんはわたしに優しく呼びかけ続けるのだろう。それは叱られるよりもずっと辛くて。わたしは、えいっと顔を上げた。


「咲紀さん。目も開けてくれないと」


 苦笑を滲ませた駅員さんの声に、そっと目を開けると、嬉しそうな困ったような駅員さんの柔らかな笑顔が目に入った。


「真哉さん。本当にごめんなさい。ごめんなさいわたし……」


「咲紀さんが反省してるのは、よくわかってるから」


「ごめんなさい」


「今僕がどれくらい嬉しいと思ってるかわかる? 勿論産んで欲しいし、咲紀さんが望むなら仕事も続けて欲しい。ただ体調を最優先させることだけは約束して。次こんなことがあるようなら強制的に休ませるしかなくなるから」


「……いい、の?」


「もちろん。佐和さんにも相談しようか。あの人も優秀な戦力を失いたくないだろうからきっと色々考えてくれると思うし」


「いい、のかな」とまだ迷っているわたしの額に、駅員さんが額をぴたりと押し付ける。


「いいに決まってるでしょう」


「本当に?」


「本当に」


 この人はいつも優しい。そしてわたしは何度その優しさに救われてきたんだろう。だからこそわたしはわたしに厳しくしないといけない。今まで以上に。だって、一人の身体じゃないんだから。


 本当にこの人に出会えてよかった。誰に感謝してもしきれない。


 駅員さんはきっといい父親になるだろう。我ながら気が早いと思いつつもそんなことを思った。


 その後の検査で実は子どもは双子だったとか、色々あるのだけれど、それもすべて少し先の話。





 Fin.





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