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駅員さんの恋  作者: 高藤みずき
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※ 栗生真哉SS 【恋の生まれた日】



 初めて来るカフェだった。こじんまりとした隠れ家的な落ち着いた内装。BGMは邪魔にならないくらいのバッハ。入った瞬間コーヒーのいい香りに包まれて、どこかホッとする。


 僕を呼び出した相手はもう既に来ていて、その向かいに座ってコーヒーを頼んだ。そうして僅かに居ずまいを正す。


「お久しぶりです。佐和さん」


「元気そうね」


「おかげさまで」


「で、あの件だけど」


 久しぶりに会うというのに挨拶もそこそこで本題に入る。彼女はいつもこうだ。真っ直ぐで厳しく、曖昧を許さない。


「すみませんが断わって頂けますか」


「そう。断わっていいのね」


 相変わらず少し冷たい突き放すような物言いに苦笑する。目の前の見るからにキツいこの美しい女性は僕の叔母だった。秋吉佐和。若いとき、一生独身だから放っておいてくれと宣言していた彼女がいきなり結婚したときには、親戚中誰もが驚いたものだ。しかしそんな彼女が実は誰よりも愛情深いことを知っている人間は案外少なくない。


「はい。構いません」


「本当に?」


「僕がやりたいのは今のこの仕事ですから」


「わかった」


 あっさりと頷かれてホンの少しだけ面食らう。その気持ちを見透かしたように叔母は不愉快そうに眉根を寄せた。


「なに」


「いえ……。佐和さんはやっぱり止めないんだな、って」


「子どもじゃあるまいし。自分のやりたいことくらい自分で決められなくてどうするの」


「そう、ですけど」


 誰もが〝なぜ〟と責めるように自分を見ることが当たり前だった。だからこそ不思議に思う。


「止めてほしいの」


「いえ」


「ならごちゃごちゃ言わない」


「はい」


 佐和さんは綺麗な仕草でコーヒーを飲み干した。この後も予定はびっしり詰まっているらしい。相変わらず忙しい人だ。その忙しい人がなぜわざわざ僕を呼び出したのかと言えば、いきなり懐かしいあの世界からやってきた自分への招待状のせいだった。懐かしいオケ。そして、藤間樹との代理一夜限りのデュオのオファー。ということはあの強烈で我が儘な性格は今もまったく変わっていないのだろうと苦笑する。随分前に音楽の世界から身を引いた自分にまで声をかけなくてはいけないほど。——考えるまでもなく過ぎた依頼だ。一言で言ってありえない。


 何度も断わり続けていたのだが、埒が明かないと戦法を変えたのだろう。だが、仲介にこの叔母を選ぶあたり読み違えにも程がある、と思った。この人自身が自分のやりたくないことは絶対にやらない人なのだ。したがって、誰かを説得するとか強制することもない。仕事はまた別のようだが。百戦錬磨のこの女編集長は難攻不落の作家を落とす神だといわれているらしい。多分そこにこの読み違いの原因があるのだろう。


「お忙しいところ申し訳ありませんでした」


「それは別に構わないけど。……真哉」


 名を呼ばれて思わず再び姿勢を正す。子どもの頃からこの人は少し苦手だった。子どもだからと容赦しない。多分にそこは彼女の長所でもあるのだが。


「これが多分人生最後のチャンスではあるわ。本番のステージで、楽しむ音に迷う音が混じるようになったら音楽家は終わりだけど、間違ってたかなんて間違ってから考えればいいのよ。――自分がしたいようにしなさい」


「はい」


「いい、のね」


「はい」


「――今も弾いてるの?」


「癖が抜けなくて」


 どんなに夜遅くても朝が早くてもとりあえず一時間は弾いている。


 肩を竦めた僕に、叔母は頷く。


「別に無理矢理捨てることはないわ。あんたは別な道を選んだだけなんだから。そうでしょ? だいたい勿体無いじゃない。せっかく覚えたことができなくなるなんて」


「ですね」


 彼女の言う〝勿体無い〟は僕に対する世間一般の〝勿体無い〟とは少し違う。だから素直に頷ける。音楽家としての自分に向けられるその言葉は、いつも侮蔑に満ちていた。片手間ではできない。僕が選んだのは幼い頃から慣れ親しんだヴァイオリンではなく、駅員の道だった。


 そういえば〝音楽家にはならない。駅員になる〟と宣言したあの日も、この人だけが何も言わなかったことを思い出す。


「ありがとうございます。佐和さん」


「中途半端なことだけはよしなさい」


「はい」


「じゃあお先に」


 そう言って僕が伸ばした手よりも先に、叔母の手が伝票を奪ってゆく。


「奢ろうなんて、千年早いのよ」


 そのまま一分の隙もないまま足早に会計を済ませて去ってゆく。それを見送って、その姿が見えなくなったとき、ふっと息を抜いた。いつもあの叔母と話していると何かを試されている気がする。何も誤魔化せない。あえて見ないようにしていた部分を引きずり出されてむき出しにされる。


 だからこそ叔母と会ったあとはぐったりと疲れるのだ。そして心のどこかがすっきりする。ずっと持ち続けていた重い荷物がなくなった後のように。


 そこへ聞くともなく男の声が耳に飛び込んできた。


「俺、アメリカに行くことにした」


「は?」


 面食らったような女性の声。背中しか見えないけれど、それでも真っ直ぐに伸びた背中は綺麗だった。その背に流れる長い髪も。「旅行、じゃないよね」と、問いかけた彼女に、当たり前だろ、とバカにしたような返事が返る。


 人を食ったようなそれでも魅力的な笑みを浮かべたまま男がやがて決定的な言葉を口にした。


「待たなくていいから」


 音が、変わった。おかしなことに男の言葉の根底に潜むのは……告げている言葉とはまるで真逆のものだ。〝待っていて欲しい〟と言っているように聞こえる。それは強い懇願——祈り。


 だからついその声の主をそっと窺ってしまった。妙に整った顔をした男だった。冷たさと熱を同居させたような、強い印象の男。こんな野生の生き物みたいな男と付き合える女性にまず興味がわいた。


「人の話聞いてるか?」


「聞いてる」


 柔らかいアルトの声は耳に心地いい。でもそれは今固く強張っている。少し恨んだ。彼女にこんな音を出させた男を。そんな風に考えた自分に面食らう。顔も見ていない女性に、こんな風に思うなんて。


「咲紀?」


 こちらに背を向けている女性の名前は〝サキ〟さんというらしい。名前までもが凛とした響きを帯びている。男の声は零れるほどの未練に満ちているのに、彼女はそれに気づかない。なぜかそれに少しだけ安堵した。


「これ、別れ話なんだよね」


「……そうだな」


「わかった」


 強がりの滲む明るい声。ホンの一瞬だけ男の顔が微かに歪んだ。ホンの一瞬だ。彼女が気づいたかどうかも怪しい。二人の間に何があったのか知らない。けれど彼は今、何かを激しく後悔していた。


「じゃあな」


 それは賭けに負けた声だった。多分男は今日自分の人生を賭けて、彼女を試したのかもしれない。とても、わかり難い方法で。


「うん。じゃあね」


 予想通り放たれた彼女の決別の声は、彼に止めを刺す。男は振り返らずに出て行くことしかできないだろう。


 その時、微かにそれを見送る彼女の背中が震えた。


 泣くんだろうか。


 ジッと探るように見つめるが、その背中はついに小揺るぎもせずに真っ直ぐ伸びたままだった。最後まで項垂れることもなく、当然こちらを振り返りもしないまま、彼女は店を後にする。


 ずっと見つめ続けていた自分に気づいて、ようやく我に返った。そして、なぜかもう一度会いたいと思っている自分に戸惑う。無理に決まっているのに。もう二度と会うことはない。——顔も知らないのだから。


 だから、驚いたのだ。この出会いに。


 あのあと何度かあの店に足を運んだけれど彼女には会えなかった。考えてみれば当然かもしれない。あんな彼女にとって不快な思い出のある店に来るはずがなかった。殆ど再会を諦めていた僕に突然訪れた最大級の偶然。奇跡、と言ってもいい。


 通常業務でホームの掃除をしていたあの日。視線を感じて顔を上げると一人の女性と視線がぶつかった。


 それだけならさして珍しくもない。「おはようございます」と挨拶すると、少し面食らったように「……オ、ハヨウゴザイマス」という言葉が返った。その声を、耳が拾う。


 この、音。柔らかなアルトの。


 まさかあの時の……? 馬鹿な。そんな偶然あるはずがない。


 確認しきる前に電車がやってきて、内心舌打ちを押し殺す。八割程度の乗車率のその電車に乗り込んだ彼女の真っ直ぐな背中を見て、確信した。


 彼女、だ。


「いってらっしゃい」


 思わずかけた声に彼女は振り返り、僕を真っ直ぐに見つめて全開の笑顔を浮かべた。引き込まれてしまいそうなくらいに強力なそれ。


「ありがとうございます。行ってきます」


 ああ、そうだ。本当に聞きたかったのは多分この音。


 澄み渡った青空のような曇りのない音。


 ――そして心が動き始めた。





Fin.




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