第3話 トーマ
翌日の昼。
俺はトーマの家にいた。
正確には、トーマの家がやっている食堂だ。
昨日もらったパンがうまかったので、他の飯も気になった。
ただし金はない。
そのことを伝えたら、
「帰れ」
と言われた。
友達だったらしいのに冷たい。
結局、昼の忙しい時間を手伝う代わりに、まかないを食わせてもらうことになった。
店は思ったより広かった。
木の机が十台ほど並んでいて、昼になるとほとんど埋まる。
客は職人や兵士が多い。
厨房ではトーマの父親と、少し年上の男が料理を作っていた。
たぶん兄だ。
トーマは料理を運ぶ。
俺は空いた皿を下げる。
異世界に転生して四日目。
やっていることは皿洗いだった。
もう少しこう。
魔法の修行とか。
魔物を倒すとか。
そういうものを想像していた。
「アルト」
トーマが皿を三枚持ってきた。
「これも」
「今やってる」
「遅い」
「素人に求めすぎだろ」
「昨日まで普通にうち来てただろ」
「覚えてないんだよ」
「あ」
トーマが止まった。
「ああ、そうだった」
まだ俺の記憶喪失に慣れていないらしい。
当然か。
昨日まで普通に話していた相手から急に、
『お前誰?』
と言われたようなものだ。
俺だって困る。
昼の混雑が落ち着いた頃。
俺たちは店の裏で休憩していた。
トーマは木箱に座り、俺は壁にもたれる。
「そういや」
トーマが言った。
「昨日の測定、どうだった?」
「0」
「……0?」
やっぱり驚いた。
「三回測って全部0」
「マジで?」
「マジで」
トーマは少し黙った。
俺は何となく身構える。
測定所では散々だった。
ありえない。
おかしい。
普通じゃない。
そんな反応ばかりだった。
トーマも同じかと思った。
けど。
「でも、普通にいるよな」
「いる」
「喋れるし」
「喋れる」
トーマは俺の顔をじっと見る。
「じゃあ俺には、よく分かんねえな」
「それで終わり?」
「だって俺、存在値の専門家じゃないし」
確かに。
「測定所では、0の人間なんて普通はいないって言われた」
「へえ」
「もっと怖がったりしない?」
「なんで?」
「なんでって……0だから?」
トーマは少し考えた。
「昨日までお前だった奴が、今日急に0って言われただけだろ」
俺は黙った。
トーマにとっては。
数字より、目の前に俺がいることの方が先らしい。
その考え方は少し意外だった。
昨日からずっと、
0。
0。
0。
俺自身も、そればかり気にしていたから。
「お前、変わってるな」
俺が言う。
「0のお前に言われたくない」
「それはそう」
少し笑った。
休憩が終わると、また店を手伝った。
皿を洗う。
野菜を運ぶ。
水を汲む。
魔法は使わない。
剣も振らない。
でも知らない客から、
「それ取って」
と頼まれる。
渡すと、
「助かった」
と言われる。
たったそれだけ。
なのに今日は、妙にその言葉が気になった。
これも存在値に関係するんだろうか。
分からない。
そもそも、存在値が何をしたら上がるのか。
俺はまだほとんど知らない。
夕方。
客が減ってきた頃。
俺はトーマと店の前で荷物を片づけていた。
そこで、小さな荷車が目に入った。
鍋や木皿が積まれている。
「これ何?」
「屋台用」
「屋台?」
「昔使ってたやつ」
トーマが荷車を見る。
少しだけ表情が変わった。
「お前、屋台やりたいの?」
「……まあ」
「へえ」
意外だった。
この食堂を継ぐのかと思っていた。
「兄貴が店継ぐから」
トーマが店の中を見る。
「俺は来月から叔父さんの商会に行くかもしれない」
「商会?」
「荷物の管理とか。仕入れとか」
「給料いい?」
「ここよりは」
「じゃあいいじゃん」
「まあな」
でも。
全然うれしそうじゃない。
「屋台は?」
「別に」
トーマは荷物を持ち上げた。
その言い方が少し引っかかった。
前世でもよく聞いた言葉だった。
別に。
そこまでやりたかったわけじゃない。
安定してる方がいいし。
俺自身も、何度か使ったことがある。
本当はやりたかったことから逃げた時に。
「本当にやりたくないの?」
思わず聞いた。
トーマが止まる。
「何が?」
「屋台」
「……急に何だよ」
「いや」
少し考える。
別に、こいつの人生に口を出したいわけじゃない。
俺だって昨日会ったばかりだ。
今の俺にとっては。
でも。
「やめるのはいいと思うけど」
トーマを見る。
「やりたくないからやめるのと、失敗したくないからやめるのって、ちょっと違うじゃん」
言ってから。
自分にも刺さる言葉だなと思った。
前世の俺は何度か、
失敗したくないから選ばなかったくせに、
別に本気じゃなかった。
そういうことにした。
トーマは何も言わない。
「まあ」
俺は荷物を持ち上げた。
「俺には関係ないけど」
「なら言うなよ」
「それはそう」
話はそこで終わった。
帰り道。
俺は昨日より少しだけ、この街を知った気がした。
トーマの家は食堂。
兄が店を継ぐ。
トーマはたぶん、屋台をやりたい。
それくらい。
大したことじゃない。
でも三日前まで。
俺はこの世界のことを何も知らなかった。
今は一つずつ増えている。
存在値については相変わらず分からない。
俺は0。
どうすれば上がるのかも分からない。
それでも今日は。
店で働いた。
誰かに頼まれた。
誰かに助かったと言われた。
トーマのことを一つ知った。
昨日よりほんの少しだけ。
この世界に自分の場所ができたような気がした。
その夜。
トーマは食堂の片づけを終えたあと、一人で店先に残っていた。
目の前には古い荷車。
屋台に使うためのもの。
昼間の言葉が、まだ頭に残っている。
――やりたくないからやめるのと、失敗したくないからやめるのって、ちょっと違うじゃん。
トーマは荷車の取っ手に触れた。
少しだけ考える。
でも。
その日は何も決めなかった。
荷車から手を離し、店へ戻った。




