第2話 じゃあ上げればいい
測定所の奥に、小さな部屋があった。
俺はそこで三十分くらい待たされた。
三十分。
長い。
異世界に来てまで役所に待たされるとは思わなかった。
世界が変わっても、こういうところは変わらないらしい。
「もう一度、確認するぞ」
さっき俺の存在値を測った男が入ってきた。
名前はダリオというらしい。
その後ろには、白髪の男もいる。
服装を見る限り、こっちの方が偉そうだ。
「アルト・レイン。十六歳」
「はい」
「三日前から記憶障害」
「はい」
「身体に異常なし」
「らしいです」
白髪の男が俺を見る。
「自分の名前は分かるか?」
「アルト」
三日前に知ったけど。
「母親の名前は?」
「ミレナ」
これも三日前に知った。
「ここがどこかは?」
「存在値を測るところ」
「私が何を確認しているか分かるか?」
「頭がおかしくなってないか?」
白髪の男が少し黙った。
「……まあ、そうだ」
正解だった。
「普通ですよ」
「存在値は0だがな」
「そこは関係なくないですか」
ダリオがため息をついた。
「お前、自分がどれだけ変な状態か分かってないだろ」
「分かってないですね」
だから説明してほしい。
白髪の男が向かいの椅子に座った。
「存在値が低い人間自体は、そこまで珍しくない」
「どれくらい?」
「十台や二十台ならいる」
「0は?」
「少なくとも、生きている人間では聞いたことがない」
生きている人間では。
嫌な言い方をする。
「じゃあ0になったら死ぬ?」
「そういうわけではない」
「じゃあ何が起きるんです?」
男は少し考えてから答えた。
「存在値が極端に低くなると、人から忘れられやすくなると言われている」
「忘れられる?」
「名前を思い出してもらえなかったり、顔が記憶に残りづらくなったりする」
なんだそれ。
普通に嫌だ。
「じゃあ0は?」
「誰からも認識されなくなる。そう考えられている」
俺は黙った。
少しだけ意味が分かってきた。
存在値が低い。
ただ人気がないとか、友達が少ないとか。
そういう話じゃないらしい。
「でも」
俺は自分を指さした。
「俺、見えてますよね?」
「見えている」
「普通に喋ってる」
「喋っている」
「じゃあ何なんです?」
「それをこっちが知りたい」
なるほど。
専門家にも分からないらしい。
頼りない。
俺は椅子にもたれた。
存在値0。
本来なら誰にも認識されない。
でも俺はここにいる。
見える。
喋れる。
腹も減る。
「あの」
「何だ」
「存在値って、上がるんですよね?」
白髪の男が少し眉を動かした。
「上がる」
「下がることもある?」
「ああ」
「仕事したり?」
「影響する」
「友達が増えたり?」
「それもだ」
「有名になったりしたら?」
「かなり上がるだろうな」
そこまで聞いて、俺は少し安心した。
「じゃあ上げればいいじゃないですか」
二人とも黙った。
なんだ、その顔。
「違う?」
「いや……」
ダリオが口を開く。
「普通の人間なら、そういう考え方もできるが」
「俺も人間ですけど」
「そこから怪しいから困ってるんだよ」
ひどい。
白髪の男が言った。
「お前の0は、普通に存在値が下がった結果とは違う可能性がある」
「でも、まだ分からないんですよね?」
「それは……そうだ」
だったら。
今できることをやるしかない。
0のまま何もしないよりはマシだ。
「じゃあ、とりあえず1にします」
「簡単に言うな」
「だって0より1の方がいいでしょ」
それは間違ってないと思う。
せっかく異世界に来たのに、初期ステータス0で終了は困る。
せめてチュートリアルくらいは遊ばせてほしい。
測定所を出ると、ミレナがすぐに立ち上がった。
ずっと待っていたらしい。
「アルト」
「ただいま」
「どうだった?」
俺は一瞬迷った。
でも隠しても仕方がない。
「0だった」
ミレナの顔が固まった。
「……え?」
「三回測って、全部0」
「そんな……」
やっぱりこの世界では、とんでもないことらしい。
「でも大丈夫」
「何が大丈夫なの?」
「上がるらしいから」
「……何?」
俺は人差し指を立てた。
「まず1にする」
ミレナはしばらく俺を見ていた。
それから、額に手を当てた。
「あなた、本当に……」
「何?」
「なんでもない」
何だよ。
帰り道。
街を歩く人たちを、昨日までとは少し違う目で見る。
店の主人。
荷物を運ぶ男。
兵士。
子供。
あの人たちにも全員、存在値がある。
誰かに頼られたり。
仕事をしたり。
何かを成し遂げたり。
そういうことで数字が変わる。
たぶん。
まだよく分からない。
でも、自分のやることは決まった。
まず0から抜け出す。
その方法を探す。
「アルト!」
突然、後ろから声がした。
振り返る。
俺と同じくらいの年齢の男が立っていた。
赤茶色の髪。
片手には、パンの入った紙袋。
そいつは俺を見るなり笑った。
「生きてんじゃん」
「……誰?」
笑顔が止まった。
「は?」
ミレナが横から教えてくれる。
「トーマよ」
「トーマ」
名前を聞いても何も思い出さない。
トーマはしばらく俺の顔を見ていた。
「お前、マジで全部忘れたの?」
「だいたい」
「俺のことも?」
「今知った」
「ひどくない?」
俺に言われても困る。
トーマは少し考えると、紙袋からパンを一つ取り出した。
「じゃあ、これ」
「くれるの?」
「前に貸した銀貨三枚、これでチャラにしてやる」
「俺、金借りてたの?」
「今作った」
「返せ」
危うく存在しない借金を背負うところだった。
トーマは笑いながらパンを俺に投げてくる。
受け取る。
まだ温かい。
「また店来いよ」
「飯奢ってくれるなら」
「来なくていい」
どっちだよ。
遠ざかっていくトーマを見ながら、俺はパンを一口かじった。
うまい。
この世界に来て三日。
分からないことばかりだ。
存在値も。
0の理由も。
この身体のことも。
でも。
まずは1。
それくらいなら、なんとかなる気がしていた。




