第18話 何もない
「朝は覚えてたんだ」
俺は言った。
南門拾遺分室。
朝と同じ机の前。
俺はミラの調査書類を持っている。
向かいにはセイン。
「四十六歳。洗濯場で十二年働いてる。存在値3」
「……紙にはそう書いてありますね」
「そうじゃなくて」
俺は机を指した。
「ここで一緒に話しただろ。どっちから行くかって」
セインは少し考えた。
でも。
やっぱり首を振った。
「思い出せません」
文字は残っている。
住所も。
職場も。
朝に測った存在値3という記録も。
全部ある。
でも。
その記録が指していたミラという人間を。
セインは思い出せない。
0。
ガルドの時に見たものと同じだ。
俺は書類に書かれた勤務先を見る。
「洗濯場、行こう」
「分かりました」
セインにミラの記憶はない。
それでも。
紙に残っている住所を調べることはできる。
俺たちはすぐに分室を出た。
ミラが働いていたと記録されている洗濯場は。
南門から歩いて十五分ほどの場所にあった。
大きな共同水場の横。
何人もの女性が、洗った布を干している。
石鹸の匂い。
水の音。
普通に仕事が続いていた。
俺とセインは。
責任者らしい女性へ声をかけた。
「ミラという人について聞きたいんです」
俺が名前を出す。
女性は首を傾げた。
「ミラ?」
「四十六歳くらい。ここで十二年働いていた人です」
女性は周りを見る。
近くで働いていた人にも聞く。
でも。
誰も知らない。
「十二年?」
一人の女性が言った。
「それなら、私も知ってるはずなんだけど……」
それでも。
顔も。
声も。
何も出てこない。
俺は書類を開く。
勤務記録。
確かにここだ。
十二年間。
ミラはこの洗濯場で働いていた。
責任者にも記録を確認してもらう。
当番表に。
『ミラ』
という名前がある。
給与の記録にも。
同じ名前。
でも。
責任者は、その文字を見ても困った顔をするだけだった。
「誰なんでしょう、この人……」
俺は何も言えなかった。
朝。
俺はこの名前を見た。
午後に来るつもりだった。
それだけ。
顔も知らない。
声も知らない。
だから。
もし今。
どこかにミラがいたとしても。
俺には。
それがミラなのか分からない。
洗濯場の奥には。
従業員が私物を置く棚があった。
一か所だけ。
誰のものか分からない棚がある。
中には。
着替え。
古い靴。
櫛。
小さな財布。
そして。
『ミラ』
と書かれた仕事札。
物は。
全部残っていた。
人だけが。
いない。
俺たちは次に。
書類に残っていた住所へ向かった。
古い借家の二階。
大家に事情を説明する。
大家も。
その部屋を誰に貸していたのか思い出せなかった。
「空き部屋……だったかな」
そう言いながら。
家賃の記録には。
毎月。
『ミラ』
の名前が残っている。
拾遺分室の立ち会いで。
部屋を開けてもらった。
中は。
普通だった。
小さな寝台。
机。
食器。
服。
洗濯仕事に使う道具。
豪華な物はない。
勲章もない。
隠し箱もない。
誰かから届いた大量の手紙もない。
俺は。
一つずつ見ていった。
何か。
感じないか。
ガルドの時みたいに。
ベルクの時みたいに。
何かが。
俺の中に残っていないか。
机を見る。
何もない。
仕事道具を見る。
何もない。
靴を見る。
何もない。
部屋を一周する。
それでも。
何も感じなかった。
「……何もなしか」
口から出た。
その瞬間。
自分で。
その言葉が嫌になった。
セインが俺を見る。
「アルトさん?」
「いや……」
俺は部屋を見る。
今。
何を残念がった?
ミラが0になったことじゃない。
《残響》がなかったことを。
最初に残念だと思った。
使えるものが。
何も残っていない。
そんなふうに考えた。
「……最悪だな」
自分に対して言った。
朝。
俺たちは二つの書類を並べた。
存在値1の元傭兵。
存在値3のミラ。
1を先にした。
その判断自体は。
今でも間違いだったとは言い切れない。
元傭兵は。
1から2になった。
俺たちが行った意味はあった。
でも。
それだけじゃなかった。
元傭兵の資料には。
昔の護衛記録。
知人につながりそうな名前。
俺たちが動けば。
何かできそうな手がかりがあった。
ミラの紙には。
洗濯場で十二年。
それくらいしかなかった。
俺は。
元傭兵の方が。
拾いやすそうだと思った。
自分の力も。
役に立ちそうだと思った。
だから。
1という数字を理由にした時。
少しだけ。
決めやすかった。
俺が先にここへ来ていたら。
ミラを助けられたのか。
それは分からない。
存在値3から。
そのまま0になったかもしれない。
俺たちが何をしても。
間に合わなかったかもしれない。
それでも。
俺は。
試していない。
午後でいいと決めた。
その午後には。
もう。
セインすらミラを覚えていなかった。
部屋の机に。
小さな給料袋が置いてあった。
中には。
働いた分の金が入っている。
十二年間。
洗濯場へ行って。
働いて。
給料をもらって。
この部屋へ帰った。
たぶん。
そんな生活だった。
それ以上のことを。
俺はまだ何も知らない。
俺はセインを見る。
「この人のこと、もう少し調べよう」
「記録を?」
「ああ」
《残響》がないなら。
残っている紙を探す。
洗濯場で。
どんな仕事をしていたのか。
誰と話していたのか。
何をして生きていたのか。
少しでも。
残っているものを探す。
俺は。
もう一度。
『ミラ』
と書かれた仕事札を見る。
朝まで。
この人は。
まだ世界にいた。
そして俺は。
午後でいいと思った。
そのことだけは。
忘れたくなかった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
《残響》について、
そろそろいくつか疑問が出てきた方もいるかもしれません。
なぜ残るのか。
なぜ人によって違うのか。
そして、誰からでも残るものなのか。
答えはもう少し先になりますが、
これまでの出来事にも少しだけ手がかりがあります。
アルトと一緒に考えながら、
読んでいただけたら嬉しいです。




