第65話:軍の封印は、蔵の戸ではなく人の心に打たれる
本日の荷:封印、一枚。
春が来て、北の動乱は終わらなかった。国境の川が雪解けで増水し、騎馬の群れは一度退いた。だが王国は兵を退かなかった。ハルダ砦の四千は、そのまま夏を越すという。
冬に通した四千八百俵は、四千人の四月分である。冬を越すぶんとしては十分だった。だが冬が明けても兵が帰らないなら、四月で尽きる。四千人が、そのまま食べ続ける。
その報せが届いた翌朝、アルバの救荒蔵に、軍が来た。
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馬に乗った男が一人、兵を二十連れていた。鞍から降りたその人は意外に小柄で、書生のような細い顔をしていた。腰の剣が、本人には少し大きく見える。
「王宮兵站府、徴発官のロッシュである」
声は、体に似合わずよく通った。
「北方兵站の緊急補填につき、当蔵の麦を徴発する。数量、四百俵。以上」
私は蔵の前に立った。
「この蔵の麦は、西部三十七か村の救荒配給分です」
「承知している」
「今日から七日分です。抜かれると、五つの村が、明後日から何も食べられません」
「承知している」ロッシュ徴発官は、まったく表情を変えなかった。「本官は、承知した上で徴発している。北の四千も、七日後に食う物がない。数の話をするなら、四千と、五つの村の——」彼は手元の紙をめくった。「二百三十七人だ」
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私はその数字を持っていた。二百三十七。ニカが数え、村役が木札に刻み、ティナさんが帳面にまとめた数字だ。私が三日ごとに配給を回している、その五つの村の人数である。それを、この人は正確に把握していた。把握した上で、抜きに来ている。
「徴発官殿。四千の兵に、七日後の食い扶持が無いという件は、私が北へ通します。ですから、この蔵は——」
「通せるのか」
「通せます。この冬、十二日で通しました」
「今は無理だ」ロッシュ徴発官は、初めて私の目を見た。「王都の兵站蔵に、麦が無い」
私は口を閉じた。
「昨年の不作で、公倉は空だ。買上は差配役殿が止めた。……北へ送る麦は、この国のどこかから抜くしかない」
彼は蔵の戸に紙を貼った。軍の封印である。朱の判が二つ、大きく押してあった。
「恨むなら、麦が半分しか実らなかったことを恨め。本官は、運ぶだけだ」
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運ぶだけ。私はその言葉を持って、蔵の前に立ち尽くしていた。運ぶだけ、というのは、私がずっと言ってきたことだった。
三年前、私は古巣で毎月の集計をしていた。数字が合わないことには気づいていた。気づいて、上へ回した。回して、それで終わりにした。誰に届く麦がどこで消えているかを、私は数えなかった。あの頃の私も、運ぶだけだった。運ぶだけの人間が、いちばん詳しい。詳しいのに何も言わない。だから仕組みは十八年、誰にも壊されずに済んだ。
私は差配をする。荷を通す。誰に渡すかは依頼主が決める。誰が飢えるかを決めるのは私ではない。私は道を作るだけだ。三年、そう言って生きてきた。その言葉を、いま、目の前の人が使っている。
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封印はその日のうちに西部の五つの蔵に打たれた。トゥーレの関所蔵、レームの船着き場の倉、カヴァルの購買所、ヴェルンの公倉、そしてアルバ。合わせて千四百俵。三十七か村の、二十日分だった。
「差配役殿。運送を頼みたい」封印を終えたロッシュ徴発官が、私のところへ戻ってきた。「徴発した麦を、ハルダ砦まで。日限は十四日。西部から北方への最短経路を持っているのは、貴殿だけだ」
私はその言葉の意味を理解するのに、たっぷり三つ数えた。
「……私に、運べと」
「軍の輜重では二十日かかる。貴殿の中継網なら十二日だ」
「私が運んだ麦を、私の網で、私の配給から抜いて」
「そうだ」
徴発官は、一枚の書付を差し出した。
『兵站民間委託差配役ロイド・ハーヴェンに対し、徴発物資の輸送を命ずる。拒否は委託違反とみなす』
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その晩、アルバの帳場に五拠点からの報せが積み上がった。トゥーレのニカ、レームのリコ、カヴァルのダグさん、北から戻ったユーゴ。みんな、同じことを書いていた。
『封印が打たれました。どうしますか』
私は返事を書けなかった。筆を持ったまま、夜明けまで座っていた。拒めば、委託違反で差配役を解かれる。解かれれば、この網は軍の直轄になる。直轄になれば二十日かかり、六割になる。運べば、五つの村が明後日から食べられない。どちらを選んでも、誰かが飢える。
私は初めて、荷の前で手が動かなかった。
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夜明け、帳場の戸が開いた。ティナさんが外套も着ずに立っていた。町長の判を、手に握ったままだった。
「ロイド」
「……ティナさん」
「聞いたわよ。あんた、あの麦を運ぶの」
私は答えられなかった。答えられないというのが、答えになってしまったのだと思う。ティナさんはしばらく黙って私を見ていた。それから、静かに——静かというのが、いちばん怖い声で、こう言った。
「町長として聞くわ。あんたは、どっちの側の人間なの」
第十章「兵の胃袋、民の胃袋」、開幕です。徴発官ロッシュは、悪人ではありません。彼は正確に数を把握した上で、正確に少ないほうを切り捨てる人です。そして「運ぶだけだ」という台詞——これはロイドがずっと言ってきた言葉で、今回それを敵の口から言われます。第三部でロイドが一番深く沈む章の始まりです。ティナが最後に投げた問いは、この作品を書き始めたときから、いつか置こうと思っていたものでした。次回、その続きです。ブックマーク・評価・感想、何よりの帰り荷です!




