第60話:塩を待っていた村が、今度は麦を待っている
本日の荷:救荒の一荷、いちばん遠い村へ。
テス村は、トゥーレ峠を越えてさらに二日歩いた先にある。二年前、私はこの村に塩を届けた。あのとき道端で私の袖を掴んだ女の人は、今度は家の前に立って、痩せた子どもを二人、後ろに隠していた。
「差配役さま。うちの村、麦がもう」
「何日分ありますか」
「……八日」
私は帳面に書いた。テス村、八日。これで三十七の村を数えたことになる。いちばん短い村は三日だった。
*
配給の設計を、私は峠の上で書いた。王国の麦は増えない。増やせるのは、回る速さだけだ。
これまでの救荒は、お上が備蓄を放出して村へ配る。半月に一度、まとめて運ぶ。運ぶ量が多いから荷は溜まり、溜まっている間、麦は誰の腹も満たさない。だから、逆にする。
「少しずつ、毎日」私はユーゴに言った。「三十七の村へ、三日分ずつ。三日ごとに回します」
「先輩、それ、荷車の数が要りますよ」
「同じです。一度に半月分を運ぶのと、三日分を五回運ぶのとでは、運ぶ総量は変わりません」
「でも手間が」
「手間は増えます。かわりに、蔵に眠る麦がなくなります」私は峠から見下ろした谷を指した。「今、麦は三か所に溜まっています。ヴェルンの公倉、アルバの中継蔵、トゥーレの関所蔵。合わせて九百俵。この九百俵は、今この瞬間、誰の腹も満たしていません」
「……はい」
「九百俵が常に道の上にあれば、王国の麦は、増えます」
*
もっとも、机の上の話はいつも現場でひっくり返る。
「毎日運ぶって、あんた正気?」
リコが川舟の舳先から怒鳴った。レームから応援に上がってきた、船主の娘である。
「あたしの舟、一日に二回しか往復できないわよ。氷が張るんだから」
「では、二回で組みます」
「そうじゃなくて!」リコは櫂で舟縁を叩いた。「荷役が持たないの。毎日毎日、積んで下ろして。腕が落ちるわよ」
「リコさん、腕が落ちたことありますか」
「……無いけど」
「では大丈夫です」
「先生、あんた最近、ちょっと図々しくなった!」
ユーゴが脇で吹き出した。
「先輩、それ、ティナさんの言い方に似てきてます」
「移ったんでしょう」
*
現場は、ひっくり返りながらも回り始めた。トゥーレのニカが峠向こうの村々の受け取り台帳を作った。誰の家が何人で、何日分を受け取ったか。字の読めない村では、村役が木札に刻みを入れた。
「名代様。これ、通行税の帳面と同じ形にしました」ニカは真顔で言った。「あの二重帳簿を暴いたときの形です。同じ形なら、後から誰でも照らせます」
「よく覚えていましたね」
「忘れません。私は、あれで人生が変わりましたので」
カヴァルのダグさんは鉱夫を荷役に出した。冬場は坑道が凍って仕事が減るのだという。
「名代さん。鉱夫は重い物には慣れてる。麦の四貫なんぞ、赤子だ」
「助かります」
「それに」ダグさんは、大きな手で頭を掻いた。「食わせてもらった恩ってのは、返しとかんと寝覚めが悪い」
北からはユーゴが降りてきた。第一兵站路線の中継を仕込んでいる最中だったが、雪で峠が閉じたので手が空いたという。
「先輩。俺、三日で三十七か村の割り当て表を覚えました」
「覚えないでください。紙を見てください」
「え」
「覚えた人が倒れると、村が止まります」私は言った。「覚えるのは道です。数は紙に書いてください」
「……はい」
ユーゴは少し嬉しそうな顔で紙を抱え直した。叱られたのに嬉しそうなのは、この子の良いところである。
*
十日で、回転は倍になった。村の受け取りは三日ごと、荷は常に道の上にある。三か所の蔵に眠っていた九百俵が、いま街道を回っている。同じ麦の量で、届く腹の数が増えた。
「先輩。西部の飢え、止まりました」ユーゴが帳面を持って走ってきた。
「止まってはいません」私は訂正した。「遅くなっただけです。麦は、まだ足りていません」
「……はい」
「ですが、遅くなれば、春まで届く村が増えます」
私は帳面を受け取った。テス村、八日分。今日で、十七日分になっている。
*
その夜、東のゼルト平野から報せが来た。王国の公倉がゼルトの村々に「供出」を命じたという。飢饉の年の救荒に充てるため、蓄えを差し出せ、と。もっともらしい命令だった。実際、それで西の村は助かるかもしれない。
だが、報せの続きに私は手を止めた。
『供出の対象に、種籾を含む』
私はその一行を睨んだ。種籾は来年の麦だ。それを食べたら、来年の秋、ゼルトの畑には何も生えない。飢饉が、二年になる。
報せは、こう結ばれていた。
『村の年寄りが一人、鍬を持って種籾蔵の前に立ち、動かぬ。役人と睨み合いのまま、三日』
軽めの回です。第九章は素材が重いので、こういう回を意識して挟んでいます。ニカ、リコ、ダグ、ユーゴ——第二部で立て直した拠点の人たちが、今度は自分から動いています。ロイド一人では、王国規模の飢饉は捌けません。彼が二年かけて育てたものが、ここで効いてきます。そして「回転を上げる」という答え。倉に眠っている麦は誰の腹も満たさない、だから道の上に置く。第一部の帰り荷とまったく同じ理屈を、王国規模でやっているだけです。次回、種籾の話をします。ブックマーク・評価・感想、何よりの帰り荷です!




