第31話:代官の讒言、届いてはいけない場所へ
本日の荷:悪意、一通。
塩が通った翌日、私は少し、浮かれていたと思う。
浮かれる、という言葉は、私の性分にはあまり似合わない。それでも、村へ塩を送り届けた御者が「向こうの子らが、久しぶりに漬物の話をしてたぜ」と伝えてくれた時、私は柄にもなく、良い荷を届けた後の、あの温かい疲れを味わっていた。
「先輩、次は薬荷ですね」ユーゴが帳面を繰った。「峠の向こう、熱病の薬も、ずっと止まってたって」
「ええ。塩の道が開いたなら、薬も同じ道を通せます。公の帳面の仕組みを、正式に回し始めましょう」
私は、良い荷のことばかり、考えていた。
だから、悪い荷が、もう峠を下って王都へ向かっていたことに、気づくのが、遅れた。
*
三日後、ヴェルンから、早馬が来た。
辺境伯家の紋付き。ただし、頼み事の書状ではなかった。政務官セドリックさんの、硬い筆跡だった。
『名代ロイド・ハーヴェンは、直ちにヴェルンへ帰参されたし。貴殿に関し、看過し得ぬ訴えが、当家に届いた』
訴え。私は、その二文字を、しばらく見つめた。荷の遅延や、段取りの落ち度なら、心当たりを数えられる。だが「看過し得ぬ訴え」に、心当たりが、なかった。
心当たりがない、というのが、そもそも私の弱点だった。
*
ヴェルンの政務館で、セドリックさんが、一枚の書付を、卓に置いた。
「これが、トゥーレから届いた。代官キッツの、告発状だ」
私は、それを読んだ。読むほどに、背筋が冷えた。
『名代ロイド・ハーヴェンは、関所の通行税を、代官の管理を離れた「私設の帳面」へ勝手に付け替え、その銭を着服せり。徴税吏ニカを脅し、公の徴税を私物化す。塩の一件も、名代が己の功を飾らんがための狂言なり——』
私が作った、公の帳面。搾取を正すために組んだ、あの仕組み。それが、そっくりそのまま、裏返されていた。「代官の手を離れた帳面」を「名代が私腹を肥やす裏帳簿」と言い換えれば、告発状は、成り立ってしまう。同じ事実が、荷札の書き方一つで、真逆の荷に化ける。
「……うまい」
私は、思わず呟いた。悔しさより先に、感心が出た。これを書いたのは、キッツではない。あの男の理屈は、二行で破綻する。これは、二行目も三行目も、破綻していない。整いすぎている。
書いた手を、私は知っている。署名の、ない手だ。
「ロイド」セドリックさんの声は、冷たくはなかった。だが、公人の声だった。「私は、貴殿を信じたい。だが、私の一存では、もう庇えぬ。告発状は、王宮の会計検査院にも、写しが回った。侯爵派が、これを『辺境伯の名代が、辺境で不正を働いた証拠』として、諮問の場に持ち出すつもりだ」
「……諮問の」
「辺境伯の『中継網委託』案の、足を折るために、だ。貴殿一人の話では、済まなくなった」
塩一つの話が、峠一つの話が、王宮の綱引きの、駒にされていた。
*
——同じ頃。ヴェインは、ヴェルンを、静かに発つところだった。
彼は、告発状を書いていない。文面の「型」を、キッツに渡しただけだ。「事実は変えるな。並べ替えるだけでいい」と。並べ替えは、代官でもできる。証跡に残るのは、キッツの署名だけ。ヴェインの名は、どこにもない。
「名代は、荷を読む男だ」ヴェインは、馬車に乗り込みながら、独りごちた。無機質な声だった。「荷は、正直だ。だから、あの男は、正直な荷ばかり見る。……人の腹を並べ替える手つきには、目が届かない」
彼は、それを、軽蔑したのでも、憐れんだのでもなかった。ただ、記録した。ロイド・ハーヴェンの弱点、一項。並べ替えに弱い。次の拠点でも、使える。
馬車が、王都へ向かって、音もなく動き出した。
*
トゥーレの関所は、再び、閉ざされた。
告発を受けた名代の差配は、無効。査問が済むまで、通行の再編は凍結。門は封じられ、公の帳面は差し押さえられた。開きかけた塩の道が、また閉じた。
そして——ニカが、危うかった。名代の「共犯」として、告発状に名を書かれていた。あの、震える手で、正しい印を押した青年が。
「私のせいです」ユーゴが、青ざめて言った。「俺が、次は薬だなんて、浮かれたことを——」
「あなたのせいではありません」
私は、首を振った。誰のせいか、なら、はっきりしている。悪意を、見逃した私のせいだ。荷の饐えた匂いは、三日前から嗅ぎ分けられる。なのに、人の悪意の匂いは、届いてから気づく。三年、そうだった。師匠は「お前は荷は読めるが、人の腹は読めん」と、よく笑った。笑い事では、なくなっていた。
私は、査問を待つ身として、ヴェルンに留め置かれた。
窓の外、峠のほうの空が、灰色に曇っていた。署名のない手の、色だった。
——だが。
私は、机の上に、そっと、二冊の帳面の写しを置いた。塩の一件の前、ニカが震える手で見せてくれた、あの二冊。差し押さえられたのは、公の帳面。差し押さえられていないのは、私が写しておいた、キッツ自身の、裏の帳面。
悪意は、見逃した。だが、荷は、写しておいた。
「……荷は、嘘をつきませんから」
私は、小さく、そう言った。今度は、誰にも聞こえない声で。
シリアス回です。ロイドの弱点——「荷は読めるが、人の腹は読めない」——が、いちばん痛いところを突かれます。彼が正しさで組んだ仕組みが、そっくり裏返されて讒言になる。書いていて胸が痛かったです。そしてヴェインは、何も書かない。型を渡すだけ。証跡はキッツの署名だけ。……この不気味さ、伝わったでしょうか。でもご安心を。ロイドは、荷を写してあります。次話、二重帳簿が、荷の数と喧嘩を始めます。大逆転、いきますよ。ブックマーク・評価・感想、何よりの帰り荷です!




