第29話:塩の来ない村、冬はもう来ている
本日の荷:塩三百俵、期限は初雪。
峠の向こうの村を、一度この目で見ておきたかった。
ボルグに頼み、荷を待つ御者の一人に、空荷の荷台へ乗せてもらった。関所を「越え」の税を払って通る御者だ。つまり、キッツに二度銭を毟られた側。峠道を登る車輪の軋みが、そのまま御者の溜息に聞こえた。
峠の頂で、風の色が変わった。北からの風が、もう冬の匂いをさせている。夏の名残のアルバから来た身には、季節が一つ、峠一つ分だけ先へ進んでいた。
「先輩、寒いです」ユーゴが襟をかき合わせた。「まだ夏なのに」
「峠の向こうは、いつも一足早く冬が来るんです。……塩が要る季節が、早く来るということでもあります」
*
峠を下りた先の村は、静かすぎた。
畑はあるのに、人の動きが少ない。井戸端に、痩せた女が一人、桶を提げて立っていた。私が塩の話を切り出すと、女は——テスと名乗った——堰を切ったように喋った。
「塩なら、もう三月、来てないよ。門で止まってるって話は聞くけど、あたしらにはどうにもできない。塩がないと、漬物が漬からない。冬の蓄えが作れない。肉も魚も、塩がなけりゃ腐らせるだけ」
「去年の冬は、どうされたんです」
テスの顔が、翳った。
「……去年は、間に合わなかった子が、いてね」
それ以上は、言わなかった。言わなくても、分かった。ニカが宿の裏で、途切れさせた言葉と、同じ翳りだった。
「今年は、間に合わせます」
私は言った。安請け合いに聞こえたかもしれない。テスは、痩せた頬で、力なく笑った。
「名代さん、って呼ばれてたね。都のお偉いさんが何人来ても、あの門は開かなかったよ。あんたが違うって、どうして分かる」
「分かりません。ですが、今までのお偉いさんは、門を『開けてくれ』と頼みに来たんでしょう。私は、頼みに来ていません」
「じゃあ、何しに」
「段取りに、来ました」
*
関所町に戻り、私は数日、帳面ばかり睨んでいた。
問題は、単純だ。通行税そのものは、悪ではない。関所を維持し、峠道を直し、ボルグたちの給金を出すには、銭が要る。逓送御番所だった頃も、税は取っていた。悪いのは、税を二重に取り、その差額を村の塩と引き換えに、都の手文庫へ流していることだ。
ならば——正しい税に、戻せばいい。
「聞いてください、ユーゴ、ニカさん」私は、机に一枚の図を広げた。峠を挟んだ、荷と銭の《流路図》だ。「通行税を、一度きりにする。取った銭は、キッツ殿の手文庫ではなく、関所の公の帳面に載せる。そして、その一部を、峠道の普請と、塩の優先通しに、回す」
「優先通し、というのは」ニカが身を乗り出した。
「塩や薬のような、命に関わる荷は、税を先払いで通す。腐る前に、越えさせる。銭は、峠の向こうの村々が、収穫のあとで払う。つまり、村が塩の代金と一緒に、峠の維持費を少しずつ負う。取られるだけだった村が、峠の持ち主の一人になる」
ボルグが、腕を組んで唸った。
「……逓送御番所の頃の、やり方に近いな。荷を止めて搾るんじゃない。荷を通して、通した分だけ、みんなで峠を養う。儂は、それを『正しい関所』と呼んどった」
「ボルグさんの言う通りです。私は、それを帳面の形にするだけです」
絵に描いた餅ではない。数字は、合う。合うどころか、キッツの二重取りより、関所にも村にも御者にも、多くの銭が残る。誰も損をしない。損をするのは、ただ一人——差額を都へ流していた、その手だけだ。
だからこそ、それは、静かな喧嘩の宣戦布告になる。
*
その夜、事は動いた。
関所の門が、完全に閉ざされた。
キッツが、通行を全面的に止めたのだ。理由は「峠道の点検」。もちろん、口実だ。門前には、塩袋を積んだ馬車が、さらに列を伸ばして凍えていた。
「名代殿がぁ、余計な絵図を描いておるそうじゃないか」詰所から出てきたキッツは、脂ぎった顔でせせら笑った。「峠を養う、だと? 寝言は寝て言え。この峠を養っとるのは、わし一人よ。……荷が惜しければ、絵図を捨てて、いつも通り、袖の下を握らせるんだな」
荷を、人質に取った。それも、村の命がかかった塩を。
列の後ろで、御者たちがざわめいた。塩が、また、門の前で止まる。テスの村の、冬が、また一つ、間に合わなくなる。
私は、閉ざされた門を見上げた。石造りの、分厚い門。人の悪意で閉じた門は、人の善意では開かない。
——では、何で開けるか。
私は、懐から、二冊の帳面の写しを取り出した。
「規則で、開けます」
塩の来ない村、痩せた女テス、去年の冬に間に合わなかった子。……この作品でいちばん静かな回かもしれません。ロイドの武器は相変わらず地味です。今回は「通行税の正しい再分配」。取られるだけだった村を、峠の持ち主にする。派手な魔法はありませんが、帳面一枚で仕組みを組み替えるのが、この人の無双です。次話、いよいよ塩を通します。一本道の関所を、迂回せず、正面から。ブックマーク・評価・感想、何よりの帰り荷です!




