第28話:灰色の書記官に、名前がついた
本日の荷:二重帳簿、一冊。
関所の徴税を調べるには、まず徴税吏と仲良くなるに限る。
翌朝、私は詰所の裏手で、若い吏を見つけた。まだ二十歳そこそこだろう。帳面を抱えて、通行税の銅貨を革袋に仕分けしている。手つきは丁寧で、指先が、少しだけ震えていた。
「精が出ますね」
「……名代殿」若い吏は身を強張らせた。「私は、ニカと申します。あの、私はただ、言われた通りに帳面を——」
「ニカさん。その帳面、二冊ありますね」
ニカの手が止まった。図星の止まり方だった。
*
帳面は、確かに二冊あった。
一冊は、門前に貼り出される『関所通行録』。峠を越えた馬車の台数と、徴収した通行税が、きちんと書かれている。もう一冊は、キッツの手文庫にしまわれた別の綴じ。ニカが震える手で開いて見せてくれたそれは、同じ日の、同じ馬車の記録だった。ただし、数が、違う。
「表の帳面では、昨日の通行は十二台。徴税は入りの分だけ。……ですが」ニカの声が掠れた。「裏の帳面では、二十八台。入りと、越えと、二度取っている。差額の——峠越えの安全料は、表の帳面には、一文も載りません」
「載らない銭は、どこへ行くんです」
「代官様の、手文庫へ。月に一度、都の使いが取りに来ます。灰色の外套の、書記官が」
灰色の。私は、その色を知っている。王都のヴァルガ商会の背後に、いつもいた影。ガレオンの隣で、決して自分の名を書付に残さなかった、あの署名をしない手。
「その書記官の、名は」
「……ヴェイン様、と。代官様はそう呼んでおられました」
ヴェイン。
三年ごしに、灰色に名前がついた。名前がついたからといって、色が薄まるわけではない。むしろ、輪郭がくっきりして、いっそう不気味になった。
*
——同じ頃。ヴェルンの、とある宿の一室。
ヴェインは、机の前で書き物をしていた。手元にあるのは、トゥーレから届いた月次の上納の控えと、もう一枚、白紙の報告書。
「二十八台、二度徴収、差額は約定通り」
彼は無機質に呟き、算盤を弾いた。数字が合う。合わない部分は、一箇所もない。合いすぎるほど、合っている。
ペンを執り、報告書に数字だけを書き込んでいく。宛名は書かない。差出人も書かない。彼のペンは、名を記すためにあるのではない。名を、記さないためにある。
「……名代が来たか」
トゥーレからの控えの隅に、小さく添え書きがあった。辺境伯の名代、ロイド・ハーヴェン、着任。ヴェインの手は、その一行の上で、一度だけ止まった。止まって、そして、何事もなかったように、次の数字へ移った。
感情は、記録に残らない。だから彼は、感情を持たないことにしている。
*
夜、私はニカと、宿の裏で話した。
「なぜ、私に見せたんです。あの帳面を」
ニカはうつむいた。長いこと、うつむいていた。
「……去年の冬、峠の向こうの村で、子供が三人、死にました。塩気が足りず、体を壊して。塩は、あそこに山ほど積まれていたんです。門の前に。代官様が、越えの銭を上げるために、わざと止めて——」
声が、途切れた。
「私が徴税吏になったのは、村に仕送りをするためでした。妹が、まだ小さくて。だから、辞められない。辞めたら、妹が飢える。でも、続ければ、誰かの妹が飢える。私は、毎日、それを天秤にかけて、目をつぶって、銅貨を数えています」
良心というのは、厄介な荷だ。捨てれば楽になるのに、捨てられない。捨てられないまま、抱えて、震えている。私は、ニカのその震えを、責める気にはなれなかった。
「ニカさん。目をつぶるのは、今日でおしまいにしましょう」
「……でも、どうやって。この峠は一本道です。迂回はできない。代官様を通さずに、荷を通す道は、どこにもない」
「ええ。迂回は、できません」
私は頷いた。地図の通りだ。北に道はなく、南は崖。逃げ道は、ない。
「だから——正面から、通します。あの門を、キッツ殿自身の手で、開けさせる」
「そんなこと、できるんですか」
「できますよ。相手が、規則を盾にしているならね」私は、二冊の帳面を見た。「規則を盾にする者は、規則で刺せる。荷は嘘をつきませんが、帳簿は、二冊あると、必ず喧嘩を始めますから」
ついに、灰色の書記官に名前がつきました。ヴェイン書記官。ガレオンの隣にいた「署名をしない手」の正体です。感情を持たないことにしている記録魔、書けば書くほど不気味になるタイプで書いていて楽しい男です。そして良心的な徴税吏ニカ。搾取する側にいる、いい人。彼の震える手が、この関所編の鍵になります。次話は、塩を待つ村の話。冬は、もう来ています。ブックマーク・評価・感想、何よりの帰り荷です!




