遥か彼方、青を見た。
扉の先の月面には、野球場ぐらいのスペースがあり、防護柵のようなもので囲まれていた。
柵の内側なら、自由に動き回れるようだった。
月面に降り立った僕たちの視界にまず飛び込んできたのは、広大な白い台地。遠くには、岩山がいくつも見える。周辺には、無数のクレーターもある。
だが、僕の視線は、すぐに遠くの宙に吸い込まれていた。
「……」
言葉が出なかった。というよりも言葉の出し方を忘れたかのようだった。
もしかしたら、呼吸すら忘れていたかもしれない。
「……きれい」
「……なんてことだ。」
息を飲む声が、次々にヘルメット内のスピーカーから響いてきた。
死を連想させる真っ黒な宇宙に浮かんでいるもの。
海を示す青色と、茶色の大地、緑の木々、白い雲。
僕が、僕たちが生まれて育った、地球。
地球から見上げた月よりもずっと大きい。
あまりにも圧倒的な存在感だった。
――
どれくらいそうしていたのか分からなかった。
僕はただひたすら、息を飲んで、ゆっくりと回転していく地球を眺めていた。
白い雲は水に落とした絵の具のように常に形を変えていた。
あの美しい惑星はそれ自体が一つの巨大な命であり、帰るべき場所なのだと思い至った。
ふと、頬を熱いものが伝っていった。止まらなかった。なぜかはわからない。
そして、ふいに僕は気づいてしまった。
なんだ。
月は、全然僕と同じじゃなかったんだ。
月は遥か昔からひとりぼっちじゃなかった。
ずっと、そばに地球がいたんだ。
こんな単純なことに、僕は気づいていなかった。
横を見ると、いつの間にかハルカが隣に立っていた。いつから居たのかわからない。ただずっと、僕と同じ方を見ていた。
僕の視線に気づいたのか、ハルカはこっちを向いてきた。
ヘルメット越しに、ハルカの頬も濡れているのが分かった。
ハルカが僕のヘルメットに手を伸ばしてきた。
そして、自分のヘルメットをこつんとぶつけてきた。
「……カナタ、聞こえる?」
スピーカーからの音声じゃない、くぐもった声が聞こえた。
ハルカは、無線を切ってヘルメット同士の振動を通して、僕だけに声を届けてきている。
僕も無線を切った。
無線は切らないように教官から言われていたけど、少しぐらい大丈夫だろう。
「聞こえるよ。どうしたの?」
「……地球、きれいだね」
「うん、本当に。僕たち、あんなところで生きているんだって感動したよ」
感動した、という言葉が自分の胸から出てきたことにひどく驚いた。
僕の言葉を聞いて、ハルカは「そうだね」と言ったあと、さらに続けた。
「カナタは、さ。この後どうするの?」
「この後って……そうだね、時間いっぱいまで見てるつもりだよ。その後は部屋で一泊してから、帰る予定じゃないっけ」
「ちがう。地球に帰った後。君さ……死ぬ気じゃないよね?」
「……っ」
一瞬、言葉に詰まった。
ヘルメット越しの彼女の目は、こっちを見つめていた。少しも目線を逸らそうしなかった。
きっと、彼女はわかっていたのだろう。僕はこのツアーに参加を決めたとき、無事に地球に帰ったら、そっと命を絶つ旅に出ようとしていたことを。
鋭い人だ。
でももう、死にたいという気持ちは消えていた。たぶん、ずっと前から。
それよりも今は地球に帰りたい、という気持ちが猛烈にわいてきていた。
「……それはちょっと前の僕だよ。もう、そんなこと考えてない」
「本当に……?カナタ、出会ってからずっと、消えたがってるような雰囲気に感じて……」
「……そんなつもりはなかったよ」
と、少しのウソを混ぜて答えた。なんだかそれも見透かされそうな気がしたけど。
それから、さらに言葉を紡いだ。
「今は、地球に帰って何をしようか考えている。だけど何をしていいかわからないんだ」
「……そ。じゃあ、よし!」
彼女の声が明るく響く。その顔は笑顔になっていた。
「私、カナタの家に遊びに行くからさ、そのままどこかに出かけようよ!都会のマンションに住んでるんでしょ?」
あまりにも想定外な提案だった。僕が住んでるマンションに押し掛ける気だ。
無料で泊まれる宿泊施設として利用したいのだろうか。
いや、きっと違うか。
「……僕しか住んでないし、何もないよ。家族はもういないんだ」
「ふーん。じゃあ行っていいってことで!部屋片づけといてね!」
ハルカは勝手に人の予定を立てていく。
そして、さらに続けた。
「あとはさ、私のアパートにも遊びに来てよ。ちょっと狭くてぼろいけど」
「君の?狭くてぼろいアパートに?それなら僕は近くのホテルにでも泊まるけど」
虫とか出るのだろうか。嫌だな。それに狭いならば、僕が行くと窮屈だろう。
そう思っての発言だったけど、ハルカが大きくため息をついているのがわかった。そのあと、僕の肩をガンガンとたたいてきた。グーで。
分厚い宇宙服だから痛くもかゆくもない。
「ほんっとに君は……!だからこそだよ!君は裕福だからこそ、知らないことが多すぎるの!もっといろいろ知ったほうがいいよ」
小さく笑いながら、彼女は付け加えた。
「私のこともさ」




