遥か彼方へ⑤
ロケットが月に着陸した僕たちは、船外活動用の分厚い宇宙服に着替えてから、外へとつながる扉の前に立った。
来たときは気づかなかったが、ここでエアロック――減圧を行うのだろう。
既に宇宙服の外の音は何も聞こえない。
会話はすべて、宇宙服内部の無線で行われた。
僕たちが正しく服を着れているかを教官が入念にチェックしてくれた。
近くで見た教官の宇宙服は、無数の細かい傷がついていた。まるでこのロケットのように。いったいどれだけの回数、この宇宙服を着て活動したのだろう。
僕は、この人が教官でよかったと思えた。
「よし、全員完璧だ。相変わらず優秀だな。では、これから減圧するぞ」
教官が操作すると、空気が抜けていくのが分かった。扉横のモニターの表示では、気圧を表す数字がどんどん減っていく。
そしてその数字が0になった時。
扉の解錠ボタンが点灯した。
教官が分厚い手袋に覆われた手でボタンを押すと、重々しい金属の扉がゆっくりと開いていった。
そこに広がっていたのは、無骨な金属の壁で囲まれたエレベーターの箱だった。
窓一つない殺風景な空間だ。少し拍子抜けしたけれど、よく考えれば当然か。この形状が一番安全なのだから。
僕は分厚いブーツで一歩を踏み出した。地球の六分の一の重力のせいで、少しだけ体がフワリと跳ねるような不思議な感覚があった。
全員がエレベーターに乗り込むと、ゆっくりと降下を始めた。
足元から微かな振動だけが伝わってくる。外の景色が見えない密室での降下は、ひどく長く感じられた。
ふと横を見ると、ハルカが少しそわそわとした様子で立っていた。ヘルメット越しの顔は、離着陸時とは違い、恐怖よりも期待に満ちているように見えた。
やがて振動が止まる。月の地上についたのだろう。
「さあ、エレベーターが開いたら月面だ」
教官の言葉が無線越しに響いた。
地球で、マンションから遠く眺めていた月。
いよいよ降り立つんだ。
つばを飲み込む音が、頭の中に反響した。
そして、エレベーターの扉が静かに開いた。
――
ついに、月面に降り立った。
だけど、イメージしていたような、クレーターと岩石にまみれた無機質な大地じゃなかった。
視界には、綺麗に舗装された夜のハイウェイのような平坦な道路が一直線に伸びていた。
道路の左右には、見上げるほど高い金属の防護柵が延々とそびえ立っていた。離着陸時の猛烈な噴射で飛び散る月の砂――レゴリスから、施設を守るためのものらしい。
後ろを振り返ると、エレベーターの向こうには僕たちを運んでくれたあのロケットがあった。
地球で切り離しをしたためか、乗り込んだ時よりも短くなっていた。それでも100メートル以上はありそうだけど。
上を向くと、真っ暗な空に瞬きのない無数の星が輝いていた。
だけど、肝心の地球の姿はどこにも見当たらない。どうやら、この高い柵の影に完全に隠れてしまっているようだ。
「地球、見えないね……」
「思っていたイメージと違うのね」
無線から、ハルカとスコット夫人の少し残念そうな声が聞こえてきた。
正直、僕も残念だった。
「なーに、イメージするような景色には後で案内するとも!まずはあのムーンベースへと向かうぞ。用意されているバギーに乗れ!」
教官が、まっすぐに続いた道路の先にある岩山を指さした。数キロはありそうだった。
その山の中をくりぬいたように、巨大な施設があるのが見える。あれがムーンベースなのだろう。
僕たちは10人は乗れそうな自動運転のバギーに乗り込み、防護柵に挟まれた道を静かに進んだ。
月の景色とはとても言えないような道のりだったけれど、誰も文句は言わなかった。
後ろ側の席に乗った僕は、スコットさんが運転してくれたピックアップトラックの乗り心地を思い出していた。
――
ムーンベースの中に入ると、僕たちはようやくあの重苦しい宇宙服から解放された。
中はまるで地球の高級リゾートホテルのようだった。
白を基調とした洗練されたデザインのラウンジ。その先にある通路は広々としていて、空調も完璧に効いている。テレビも複数あり、それぞれに各国のテレビ番組が映し出されていた。日本の番組もある。
日本人である僕とハルカが来るから合わせてくれたのだろうか。
その光景が地球と何も変わらなくて、自分が今、月にいることを忘れてしまいそうになる。
「ふあーっ!身軽になったー!」
ハルカがせいいっぱいの伸びをしたあと、大きくジャンプをして、高さ3メートルはあるであろう天井に手をついていた。
楽しそうだけど、僕は真似しなかった。……後でやってみようかな。
スコットさん夫妻も、ほっとしたように肩の力を抜いて微笑み合っていた。
驚いたことに、ムーンベース内には自分たち以外にも人がいて、ラウンジで談笑していた。
僕たちと同じようなゲストかと思っていたが、教官は気さくに彼らに話しかけていて、ハグしあっていた。
「知り合いなのですか?」
僕が教官に問いかけると、笑いながら「彼らとは何度も一緒に飛んだことがある」と教えてくれた。教官いわくプロの宇宙飛行士たちで、仕事で来ているのだという。
それから、僕たちはそれぞれの個室へと案内された。
ホテルの一室と同じ設備だった。窓は無いが、ベッドもトイレもシャワーもある。
ここで写真を撮ったら、きっと月だとは思わないはずだ。
だけど、よくある光景なのに体にかかる重力が違う。それがなんだか三半規管を混乱させたのか、ひどく不思議な感覚だった。
ベッドに横たわった僕は、あっという間に意識が落ちていった。
――
「まもなく時間だ。ラウンジに集合するように!」
部屋のスピーカーから響いてくる教官の声で目が覚めた。
のそのそとベッドから出た僕は、再びラウンジへと向かった。
すでにハルカとスコットさん夫妻は集まっていた。
みんな少し緊張しているような、だけど浮き足立ったような、そわそわした雰囲気だった。
これから、月面に立って地球を仰ぐ時間がやってきたのだ。
この長い旅路の真の目的だ。
僕たちは再び、あの分厚く重苦しい船外活動用の宇宙服を着込んだ。
教官の入念なチェックを受け、外へ直結するエアロックの前に立つ。
モニターの気圧計が、どんどん減っていく。
やがて「0」を示した。
「扉を開けるぞ。さあ、ここが君たちの目的地だ。気を付けて行っておいで」
教官が陽気な声をあげながら、解錠ボタンを押した。
そして、重々しい金属の扉が、ゆっくりと開いていった。




