第9話:群英会と苦肉の計
第9話:群英会と苦肉の計
孫権と劉備の同盟が成ったとはいえ、長江を挟んで対峙する曹操軍の兵力は依然として圧倒的であった。呉の総司令官・周瑜は、自軍の数倍に及ぶ敵を打ち破るには、正面突破ではなく「火計」を用いるしかないと確信していた。しかし、そのためには曹操の目を眩ませ、その鉄壁の警戒心を内側から崩す必要があった。
同時に、周瑜の心にはもう一つの火種が燻っていた。それは味方である諸葛孔明への強い畏怖である。
(孔明の知略は神の如し。今、曹操を倒すためには彼が必要だが、生かしておけば必ずや将来、呉の脅威となる……)
周瑜は事あるごとに孔明に難題を突きつけ、その失態を理由に処刑しようと画策した。その最たるものが「十日間で十万本の矢を作れ」という無理難題であった。しかし、孔明は平然と「三日で作りましょう。できねば軍法に服します」と言い放った。
二日経っても孔明は動かない。周瑜がほくそ笑んだ三日目の夜、長江は深い霧に包まれた。孔明は藁人形を立て並べた二十隻の小舟を出し、曹操軍の陣営へと近づかせた。霧の中で敵襲と誤認した曹操軍は、一斉に矢を放つ。放たれた矢は次々と藁人形に突き刺さり、夜明けまでに十万本を超える矢が「回収」されたのである。
「……私では、あの男には及ばぬのか」
周瑜は天を仰いだ。しかし、感傷に浸っている暇はなかった。曹操を葬るための、より巨大な計略――「連環の計」と「苦肉の計」を完成させねばならなかった。
まず、周瑜のもとへ曹操から一人の使者が送られてきた。周瑜の旧友であり、弁舌に長けた蒋幹である。周瑜はこれを利用した。酒宴を開いて旧交を温めるふりをし、酔い潰れて寝入ったふりをして、机の上に偽の手紙を置いたのである。それは、曹操軍の水軍提督である蔡瑁らが周瑜と内通していると思わせる偽造工作であった。
蒋幹はまんまとこれを盗み出し、曹操に報告した。疑い深い曹操は激怒し、水戦に長けた貴重な将軍たちを即座に処刑してしまった。孔明はこれを見抜き、「周瑜どのの策に、曹操が嵌まりましたな」と笑った。
しかし、水軍の指揮官を失ったとはいえ、曹操軍の船団は依然として巨大な城塞のように長江を覆っていた。北国育ちの曹操の兵たちは船酔いに苦しんでいたが、そこへ「鳳雛」と称される賢者、龐統が現れる。龐統は、実は周瑜と通じていた。
「船同士を鎖で繋ぎ、その上に板を敷けば、馬も走れる平地のようになります」
龐統の進言を信じた曹操は、全軍船を鎖で連結させた。これこそが、一度火がつけば逃げ場を失う「連環の計」の完成であった。
最後に必要だったのは、曹操の懐に深く入り込み、火を放つための「導火線」である。
呉の宿老であり、三代にわたって仕えてきた忠臣・黄蓋が、周瑜の天幕を訪れた。
「都督、曹操を欺くには、もはやこれしかありませぬ。私のこの老体、お使いくだされ」
翌日、全将兵が集まる軍議の席で、周瑜と黄蓋は激しい口論を演じた。黄蓋が「曹操に降伏すべきだ」と公然と主張し、周瑜が「軍の士気を乱す老害め」と激怒する。周瑜は黄蓋を百叩きの刑に処すよう命じた。
「都督、黄蓋どのは三代の功臣! なにとぞお許しを!」
諸将が涙ながらに止める中、周瑜は冷酷に「打て!」と叫び続けた。棒が振り下ろされるたびに、黄蓋の背中の肉は裂け、鮮血が飛び散る。百叩きが終わる頃、老将の体は見るも無惨な状態であったが、その瞳には強い意志の火が宿っていた。
これこそが、自らの肉体を痛めつけて敵を欺く「苦肉の計」であった。
曹操の陣営には「周瑜の独裁に耐えかねた黄蓋が、船団を率いて投降したいと言っている」という報せが届いた。曹操は当初疑ったが、実際に黄蓋が惨たらしい刑を受けたという情報が入り、さらに彼からの偽りの降伏状を読み、ついに確信した。
「黄蓋が来れば、呉の背骨を折ったも同然よ」
曹操は、近づく破滅の足音を、勝利の凱歌と思い込んでいた。
すべての準備は整った。船は繋がれ、内通の偽装は完璧であり、火を放つための老将も配置についた。
しかし、いよいよ決行の夜、周瑜は北西から吹く冷たい風を見て、愕然として吐血し、倒れ伏した。
「……火を放っても、この風では我が軍が焼かれるだけだ。天は私に、死ねと言うのか」
冬の長江に吹くのは、北西の風。火計を成功させるには、絶対に吹くはずのない「南東の風」が必要であった。
病床の周瑜のもとに、羽扇を揺らしながら孔明が現れた。孔明は、周瑜の病の原因が「風」であることを即座に見抜き、静かに囁いた。
「都督よ、ご安心なされ。私に、風を呼ぶ秘術がございます」
知略の限りを尽くした人間たちの策略が、ついに「天」の領域へと触れようとしていた。
物語は、三国志最大のスペクタクル、そして英傑たちの運命が決定する「赤壁の決戦」へと登り詰めていく。
(第9話・完/第10話へ続く)




