第8話:孔明、江東に赴く
第8話:孔明、江東に赴く
長坂坡の惨劇を経て、劉備軍は壊滅的な打撃を受けた。わずかな手勢と数万の避難民を連れ、命からがら長江のほとりに辿り着いた劉備を待っていたのは、冷酷な現実であった。背後には曹操が率いる、天下を飲み込まんとする「八十万」とも称される大軍が迫っている。劉備軍の残党だけでは、曹操の先鋒すら支えることは不可能であった。
「わが主君、生き残る道はただ一つ。江東の孫権と結び、共に曹操に立ち向かうことのみにございます」
諸葛孔明はそう断言した。しかし、これは極めて困難な道であった。孫権を盟主とする呉の国にとって、敗軍の将である劉備と組むことは、曹操という巨大な火の粉を自ら被ることに他ならない。しかも呉の宮廷内では、曹操の圧倒的な兵力に怯え、戦わずして降伏すべきだと主張する「文官」たちが大勢を占めていた。
「私が江東へ赴き、孫権を説得して参りましょう。三寸の舌をもって、呉を戦乱の渦中へと引き込んで見せます」
孔明は羽扇を手に、単身、江東の本拠地・柴桑へと乗り込んだ。それは虎の穴に飛び込むに等しい、命懸けの外交交渉の始まりであった。
柴桑の宮廷に到着した孔明を待ち受けていたのは、歓迎の宴ではなく、冷徹な敵意と嘲笑であった。呉の宿老であり、当代随一の学者として知られる張昭を筆頭に、二十人を超える名だたる論客たちが、孔明を論破し、その鼻をへし折ろうと待ち構えていたのである。
広間に通された孔明に対し、張昭が冷ややかな笑みを浮かべて先陣を切った。
「諸葛亮殿。貴殿は劉備殿に仕える際、『天下を治めてみせる』と豪語したと聞く。しかし現実はどうだ。拠点を失い、民を見捨てて逃げ惑い、今や我が国に命乞いに来た。伏龍の名が泣くというものだ。貴殿は一体、劉備殿のために何をなしたというのか?」
並み居る文官たちから一斉に嘲笑が漏れる。しかし、孔明は動じない。むしろ不敵な笑みを浮かべ、静かに口を開いた。
「大鳥が天空を飛ぶ志を、燕や雀のような小鳥に理解できましょうか。我が主君・劉備は、数千の負傷兵を抱えながら、曹操の百万の軍勢に立ち向かった。敗れたとはいえ、その義気は天下に轟いている。翻って、貴殿らはどうだ? 江東の豊かな土地と数万の精鋭を持ちながら、敵の姿を見る前に『降伏』を口にする。それこそ、天下の物笑いの種ではありませんか。貴殿らが論じているのは、国を滅ぼすための腐った学問に過ぎぬ!」
孔明の雷のような一喝に、張昭は顔を真っ赤にして絶句した。続いて、次々と呉の秀才たちが歴史や思想、兵法を持ち出して孔明に挑みかかるが、孔明はその倍の知識と鋭い弁舌、そして時に激しい煽りを交えて、ことごとく彼らを一刀両断にしていった。これが後世に語り継がれる「諸葛亮、群儒を論破す」の場面である。
文官たちを黙らせた後、孔明はついに江東の若き主、孫権との直接会談に臨んだ。
孫権はまだ二十代。父・孫堅と兄・孫策という偉大な先代を継ぎ、その若き肩に江東の民の命運を背負っていた。彼は、曹操と戦うべきか、降伏すべきか、胸の内では激しく葛藤していた。孔明は孫権の「プライド」こそが、この男を動かす鍵だと見抜いた。
「曹操の勢いは凄まじく、長江を渡れば江東は血の海でしょう。もし、ご自身に曹操と戦う覚悟がないのであれば、すぐにでも髪を剃り、手を縛って曹操に降伏されるのが賢明です」
孫権はカッと目を見開き、不快感を露わにした。
「ならば、なぜお前の主・劉備は曹操に降伏しないのだ!」
待ってましたとばかりに、孔明の瞳が鋭く光った。
「我が主君は、漢王朝の血を引く真の英雄です。大義のために戦って滅びることはあっても、賊に膝を屈することなど断じてあり得ない。江東の孫氏も三代にわたる英雄の家系と聞きますが、曹操を恐れて臣下に成り下がるとは……。劉備将軍もさぞや失望されることでしょう」
「……黙れ!」
孫権は机を叩いて立ち上がった。彼の胸に、英雄としての激しい対抗心と、屈辱を撥ね退けようとする炎が灯った。そこへ、江東の軍事を統括する最高司令官、周瑜が帰還する。周瑜もまた、孔明と同じく「曹操を破り、天下を競うのは我らである」という強い信念を持つ美青年であった。
孫権、周瑜、そして孔明。
時代の中心となる三人が、一つの部屋に揃った。孔明は、曹操の軍勢が北国育ちで水戦に慣れていないこと、伝染病が流行り始めていること、そして今こそが「天の与えた好機」であることを理路整然と説いた。
ついに孫権が決断を下した。彼は腰の剣を抜き放つと、目の前の重厚な机の角を、一刀両断に切り落とした。
「これより曹操と戦う! 今後、降伏を口にする者がいれば、この机と同じ運命を辿るものと思え!」
激しい剣の音が広間に響き渡った。ここに、歴史を大きく変える「孫劉同盟」が正式に結ばれたのである。
しかし、同盟はあくまで「共通の敵」を倒すためのものに過ぎなかった。江東の若き天才・周瑜は、孔明の恐ろしいほどの知略を目の当たりにし、ある疑念を抱き始めていた。
(この男、今は味方だが、生かしておけばいつか我が呉の最大の敵となる。……ここで葬るべきか)
同盟の裏側で、味方同士の命懸けの騙し合いが始まろうとしていた。物語は、静かに、しかし着実に、長江を真っ赤に染める歴史的大決戦「赤壁の戦い」へと動き出していく。
(第8話・完/第9話へ続く)




