第7話:長坂坡の戦い
第7話:長坂坡の戦い
諸葛孔明という稀代の天才軍師を迎え入れた劉備軍であったが、運命の女神は彼らに休息を与えなかった。北方を完全に平定した曹操が、いよいよ天下統一の総仕上げとして、五十万とも称される空前絶後の大軍を率い、南下を開始したのである。
時を同じくして、劉備を庇護していた荊州の主・劉表が病死。跡を継いだ次男の劉琮は、あろうことか劉備に一切の相談もなく、曹操に降伏してしまった。
拠点を失い、背後から曹操軍の精鋭が迫る。劉備に残された道は、南の要衝・江陵へと逃れることのみであった。しかし、ここで劉備の軍列にある異変が起きる。劉備の徳を慕う荊州の領民たちが、「劉皇叔と共に行かせてほしい」と、家財を担いでその行軍に従い始めたのである。その数は、十万人を超えた。
「民を連れていては、一日に十里(約4キロ)ほどしか進めません。このままでは曹操の騎馬隊に追いつかれます。民を捨て、我らだけで急ぎましょう!」
孔明や部下たちは必死に説得したが、劉備は涙を流して首を振った。
「大事を成すには、人を根本とせねばならぬ。私を頼ってついてくる民を見捨てるくらいなら、私はここで死んでも構わぬ」
劉備は、全軍に民の歩調に合わせて進むよう命じた。このあまりにも無謀で、しかしあまりにも気高い慈悲が、劉備軍を史上最大の窮地へと追い込むことになった。
建安十三年(208年)九月。曹操が放った精鋭騎馬隊「虎豹騎」五千が、当陽の長坂坡で、ついに劉備の軍列に追いついた。
地響きと共に押し寄せる鉄騎の群れ。無防備な領民たちは悲鳴を上げ、四散した。夜明け前の混乱の中、劉備軍の陣形は跡形もなく崩壊し、関羽や張飛ともはぐれ、劉備は数騎の供と共に辛うじて戦場を脱出した。
しかし、その傍らに、最愛の妻たちと、まだ赤ん坊である嫡子・阿斗の姿はなかった。
「……若君をお救いできずして、何の将軍か!」
その混乱の最中、白銀の甲冑を血で染めた一人の若き猛将が、馬を返した。
常山の趙雲、字は子龍。
趙雲はただ一騎、数万の敵兵が渦巻く地獄の戦場へと逆行していった。
趙雲の戦いは、正気の沙汰ではなかった。四方八方から襲いかかる曹操軍の猛将たちを、槍の一突きで黙らせ、剣の一振りでなぎ倒す。返り血で白馬が赤馬に変わるほどの激闘の中、彼はついに、崩れた土塀の影で阿斗を抱きかかえて座り込む糜夫人を発見した。
「奥方様、早く私の馬に!」
しかし、糜夫人は足を深く負傷しており、自分が共に逃げれば趙雲の足手まといになることを悟っていた。彼女は阿斗を趙雲に託すと、「若君を、どうか主君のもとへ……」と言い残し、近くの古井戸に身を投げて自害した。
趙雲は悲しみを堪え、赤ん坊の阿斗を自らの胸当ての中にしっかりと縛り付けた。
「若君、しばしの間、ご辛抱を。この趙子龍が、必ずや道を切り拓いてみせます!」
ここから、伝説の「単騎駆け」が始まった。
趙雲は曹操軍の包囲網の真っ只中を、一直線に突き進んだ。高台からその様子を見ていた曹操は、一騎で数万の軍勢を翻弄するその武勇に目を奪われた。
「あれほどの将、殺すには惜しい。生け捕りにせよ、矢を放つことは禁ずる!」
この曹操の「欲」が、趙雲にわずかな隙を与えた。趙雲は奪い取った名剣・青釭を振るい、立ち塞がる曹操軍の将軍五十数人を瞬く間に斬り伏せ、奇跡的に包囲網を突破したのである。
満身創痍の趙雲がたどり着いたのは、長江へと続く長坂橋であった。
そこには、一騎の黒い影が、橋の袂で仁王立ちになっていた。
張飛、字は益徳。
「子龍、よく戻った! 後は俺が引き受けた、行け!」
趙雲を逃がした張飛は、馬の尾に木の枝を縛り付けて走らせ、土煙を上げることで「伏兵がいる」と見せかける策を講じつつ、たった一人で数万の曹操軍を睨みつけた。
追いついた曹操軍の先鋒たちが、橋の上で一人立ち塞がる張飛に気圧され、足を止める。そこへ、張飛の全身の力が籠もった、天をも裂く大咆哮が響き渡った。
「我こそは燕人の張飛益徳なり! 誰か命のいらぬ者は前へ出て、俺と死闘を決せよ!」
その怒号は、まるで雷が耳元で落ちたかのような衝撃であった。曹操軍の最前列にいた将軍の一人は、そのあまりの覇気に心臓を破裂させて落馬した。曹操自身も、かつて関羽から聞いた「張飛は万軍の中から敵将の首を容易く取る」という言葉を思い出し、恐怖に震えた。
「引け! 伏兵の罠だ、全軍退け!」
曹操の命令で、数万の軍勢がたった一人の男に恐れをなし、蜘蛛の子を散らすように撤退していったのである。
ようやく劉備のもとへ辿り着いた趙雲は、胸元から無傷の阿斗を取り出し、主君に捧げた。
「主君、力及ばず、糜夫人を守りきれませんでした。申し訳ございません」
劉備は差し出された赤ん坊を受け取ると、そのまま地面へ投げ捨てようとした(実際には部下が受け止めた)。
「この幼子のために、私の大事な手足である趙雲を失うところであった!」
劉備は涙を流して趙雲の手を取った。趙雲もまた、主君の深い情愛に震え、「この人のためにこそ、私は何度でも死地へ向かおう」と心に誓った。
長坂坡の激闘は、劉備軍の敗北ではあったが、趙雲の忠義と張飛の咆哮という二つの伝説を生んだ。しかし、曹操の脅威が去ったわけではない。
劉備軍は、いよいよ生き残りを懸けて、長江の対岸に座する「江東の雄・孫権」との同盟という、最後の大博打に打って出ることになる。
(第7話・完/第8話へ続く)




