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三国志  作者: 本間敏義
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第6話:三顧の礼

第6話:三顧の礼

 関羽、張飛と再会を果たした劉備であったが、依然として安住の地を得ることはできずにいた。最強の敵・曹操は、北方の袁紹を滅ぼして天下の半分をその手中に収め、その圧倒的な軍勢は南へと向けられようとしていた。劉備は荊州けいしゅう劉表りゅうひょうのもとに身を寄せていたが、賓客としての扱いに甘んじる日々が続いていた。


 ある日の宴の席で、劉備はふと自分の太ももに贅肉がついていることに気づき、人目を忍んで涙を流した。


「私はかつて、馬の鞍から離れることなく戦場を駆け回っていた。だが今はどうだ。まともな戦もできず、虚しく歳月を重ねている……」


 この「髀肉之嘆ひにくのたん」こそ、劉備の焦燥の現れであった。自分たちには関羽や張飛のような万夫不当の勇将はいる。しかし、刻一刻と変化する天下の形を読み、勝利への道筋を論理的に描ける「軍師」が決定的に欠けていた。


 そんな劉備に、転機が訪れる。襄陽じょうようの賢者、水鏡先生すいきょうせんせいこと司馬徽しばきが、ある予言めいた言葉を贈ったのである。


伏龍ふくりょう鳳雛ほうすう、そのどちらか一人でも得ることができれば、天下を治めることができるでしょう」


 伏龍――その正体は、隆中りゅうちゅうの山深い庵で、晴耕雨読の生活を送っている諸葛亮しょかつりょう、字は孔明であった。当時、まだ二十七歳の青年。しかしその才は太公望や張良にも比肩すると噂されていた。


「これぞ、我が求めていた漢だ」


 劉備は確信した。彼はすぐさま関羽と張飛を連れ、孔明を自らの軍師として迎えるべく、隆中の山へと向かった。


 一度目の訪問。冬の冷たい風が吹く中、劉備は庵の門を叩いた。しかし、出迎えた童子は「先生は今、旅に出ており不在です」と告げる。劉備は深く落胆したが、せめて名を通じようと、丁重に挨拶をして山を下りた。張飛は「わざわざ兄貴が出向くことはねえ。呼び出せば済む話だ」と不満を漏らしたが、劉備は「賢者を迎えるのに、礼を尽くさずして何とする」と、それを厳しく諌めた。


 数日後、本格的な冬が訪れ、天地が激しい大雪に覆われた。劉備は二度目の訪問を決行する。


「こんな雪の日に行くなんて正気か」と呆れる張飛と、黙々と従う関羽。雪道をかき分け、馬を滑らせながら、劉備は再び庵を訪れた。しかし、そこにいたのは孔明の弟・諸葛均しょかつきんだけで、孔明はまたしても不在であった。


 劉備は、寒さに震えながら一通の手紙をしたためた。そこには、漢王朝の衰退を嘆く心、民を救いたいという切実な願い、そして孔明の知略をいかに必要としているかが、血を吐くような誠実さで綴られていた。劉備はそれを預け、雪の中に深く一礼して立ち去った。


 そして翌年、春の陽気が山々を彩る頃。劉備は三度目の訪問を前に、三日間精進潔斎しょうじんけいさいして身を清めた。身分も年齢も、劉備の方が遥かに上である。しかし、彼は一人の若き天才に対し、最大級の敬意を払った。


 張飛はついに堪忍袋の緒が切れ、「あんな若造、俺が縄で縛って連れてきてやりますよ!」と叫んだが、劉備は本気で怒り、「そんな無礼を働くなら、お前はもうついてくるな」と言い渡した。張飛は渋々口を噤み、三人は再び隆中へ足を踏み入れた。


 三度目にして、ようやく孔明は庵にいた。しかし、彼は昼寝の最中であった。


 劉備は「先生を目覚めさせてはならぬ」と命じ、自らは軒下に立ち尽くした。春の冷え込みが残る中、一時間、二時間と時が過ぎる。関羽と張飛は庭で苛立ちを募らせていたが、劉備は微動だにせず、静かに孔明が目覚めるのを待ち続けた。


 やがて、孔明がゆっくりと目を覚ました。


「……外にどなたかおられるのか?」


「劉備が、長らくお待ち申し上げておりました」


 軒下で何時間も自分を待ち続けていた劉備の姿、そしてその瞳に宿る真摯な熱意に、孔明の心はついに動いた。


 二人は奥の部屋で卓を挟んで対峙した。孔明は、まだ何の実績もない青年とは思えぬ落ち着きで、静かに語り始めた。


「劉皇叔よ、今の天下はどう見えますか?」


 劉備は正直に答えた。「曹操の勢いは止まらず、私は拠点を失い、進むべき道が見えません。どうか、愚かな私に天下を救う知恵を貸してください」


 孔明は傍らの地図を広げた。


「曹操はすでに天の時を得て北を制しています。これと争ってはなりません。東の孫権は地の利を得て江東を統治しています。これとも争うのではなく、結ぶべきです」


 孔明の指が、空白の西の地を指した。


「将軍がまず荊州を、次に益州えきしゅうを手に入れ、そこを拠点になさるのです。そうすれば、北の魏、東の呉、そして西の蜀。天下を三つに分け、勢力を拮抗させることができます。その上で時を待ち、中原へ進出すれば、漢王朝の復興は成し遂げられましょう」


 これこそが、歴史を決定づけた「天下三分てんかさんぶんの計」であった。


 霧の中にいた劉備の目の前が、一瞬にして晴れ渡った。具体的な戦略、壮大な国家の青写真。これこそが、劉備が切望していた「光」だった。


「先生、どうか私をお助けください。私が死んでも、民が救われるのなら本望です!」


 劉備は畳に頭をこすりつけ、涙ながらに懇願した。


 孔明は、自分を三度までも訪ね、泥まみれになって頭を下げるこの英雄の誠実さに打たれ、深く一礼した。


「将軍の三度の厚情、痛み入ります。この諸葛亮、非才の身ながら、馬前にお供いたしましょう」


 ここに、三国志史上最も美しいとされる主従関係が結ばれた。劉備はのちにこの関係を「私に孔明がいるのは、魚に水があるようなものだ(水魚の交わり)」と語り、最大の喜びとした。


 若き天才軍師・諸葛孔明という最高の翼を得た劉備。


 しかし、運命は過酷であった。孔明が仕官して間もなく、曹操の数十万の軍勢が、津波のように荊州へと押し寄せてくる。


 物語は、結成されたばかりの劉備軍が迎える、絶体絶命の撤退戦へと突入していく。

挿絵(By みてみん)

(第6話・完/第7話へ続く)

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