第10話:東風を吹かせよ
第10話:東風を吹かせよ
建安十三年(208年)冬、長江の北岸には曹操が誇る数千艘の戦船が、巨大な鎖によって互いに繋ぎ合わされ、まるで水上の巨大要塞のように鎮座していた。対する呉の陣営では、総司令官・周瑜が、策を完遂させるために不可欠な「風」がないことに絶望し、病の床に伏していた。
この季節、長江に吹くのは北西の風のみ。火を放てば、炎は呉の軍勢を焼き尽くしてしまう。火計を成功させるには、対岸の曹操軍へ向けて炎を運ぶ「東南の風」が絶対に必要であった。
病床の周瑜を訪ねた孔明は、紙にそっと十六文字の言葉を記して見せた。
『曹操を破らんと欲せば、宜しく火攻めを用いるべし。万事すべて備わるも、ただ東風を欠く』
自らの心の奥底を完璧に読み透かされた周瑜は、驚愕して起き上がった。
「孔明殿……すべてはお見通しか。だが、天の運行は変えられぬ。この冬の最中に東南の風が吹くことなど、あり得るのか」
孔明は静かに微笑み、羽扇を揺らした。
「私は若き頃、異人より気象を読み、天を操る秘術を授かりました。都督よ、私に七星壇を築かせてくだされ。私が壇上で祈祷を捧げ、三日三晩、東南の風を呼び寄せましょう」
周瑜は半信半疑ながらも、わらにもすがる思いで孔明の言葉に従った。南屏山の頂に、高さ九尺の三層に及ぶ巨大な祭壇「七星壇」が築かれた。周囲には百二十人の兵が配置され、それぞれが五色の旗を手に持ち、孔明の祈祷を待ち受けた。
孔明は髪を解き、道士の衣を纏い、裸足で壇上に登った。彼は一日に三度、壇上を巡り、宝剣を振るって天に呪文を唱えた。
一日が過ぎ、二日が過ぎる。しかし、風は依然として冷たく北西から吹き続け、旗は力なく垂れ下がっていた。呉の将軍たちは「孔明はペテン師だ」と罵り、周瑜の焦燥も極限に達していた。
「もし三日目の期限になっても風が吹かねば、孔明の首を撥ねる!」
そして三日目の夜、運命の刻限が迫っていた。
空は低く垂れ込め、長江の波は不気味なほどに静まり返っていた。周瑜が剣を握りしめ、処刑の命を下そうとしたその瞬間――。
カサリ、と天幕の端が揺れた。
周瑜が顔を上げると、先ほどまで北西を指していた旗の先端が、ふわりと反対側を向いた。次の瞬間、木々が大きくざわめき、生暖かい湿り気を帯びた激しい風が、南東の方角から吹き荒れ始めたのである。
「吹いた……東南の風だ!」
周瑜は叫んだ。しかし、同時にその背筋に冷たい戦慄が走った。
(天の風をも自在に操るこの男……生かしておけば、必ずや呉を滅ぼす。今この瞬間に殺さねばならぬ!)
周瑜は即座に猛将・丁奉と徐盛に命じ、七星壇へ急行させた。しかし、彼らが壇上に駆け上がった時、そこにはもはや孔明の姿はなかった。孔明は風が吹き始めた瞬間、すでに壇を下り、あらかじめ待機させていた趙雲の小舟に乗って、長江を渡りきっていたのである。
趙雲の放った一矢が、追跡する呉の軍船の帆柱を射抜く。孔明は悠然と自陣へと帰還していった。
一方、東南の風を得た呉の軍勢は、もはや躊躇しなかった。
火計の実行役、黄蓋が二十隻の火船を率いて先陣を切った。船には枯れ草や油脂が満載され、その上には偽装の布が被せられている。
曹操は、激しい風の中に黄蓋の船団が近づくのを見て、勝利を確信した。
「見よ、黄蓋が降伏しに来たぞ。鎖で繋がれたわが軍船は、一歩も引かぬ無敵の城塞だ!」
しかし、黄蓋の船が曹操の陣営まであと二里に迫った時、一斉に偽装の布が剥ぎ取られた。
「火を放て!」
黄蓋の叫びと共に、二十隻の船が巨大な松明と化した。激しい東南の風に煽られ、火船は凄まじい速度で曹操の船団へと突っ込んでいった。
轟音と共に、炎が曹操の旗艦を飲み込んだ。船同士が強固な鎖で繋がれていたことが、今度は最悪の災いとなった。炎は鎖を伝って次々と隣の船へと燃え広がり、逃げ場を失った兵たちは紅蓮の炎に包まれた。
長江の水面は燃え上がる船と兵士たちの血で赤く染まり、夜空は昼間のように明るく照らし出された。
「鎖を解け! 船を切り離せ!」
曹操が悲鳴を上げるが、焼き付いた鎖が外れることはない。天下を飲み込もうとした八十万の大軍は、孔明が呼んだ風と、周瑜が放った炎によって、瞬く間に灰へと変わっていった。
曹操は煙に巻かれ、わずかな供回りと共に、泥まみれになって戦場を脱出した。しかし、そこには孔明が事前に配置していた伏兵たちが待ち構えていた。
趙雲の槍が闇を裂き、張飛の咆哮が大地を震わせる。曹操は冠を落とし、髪を振り乱しながら、文字通り命からがら敗走を続けた。
赤壁の夜は明けた。
長江を埋め尽くした軍船の残骸が虚しく漂う中、劉備と孔明は高台から戦場を見下ろしていた。
「先生、ついに……ついに曹操を破りましたな」
「はい。これで天下の流れは決まりました。これより、本格的な『天下三分』の幕が上がります」
しかし、孔明の計算にはまだ続きがあった。敗走する曹操の行く手、険しき難所・華容道に、彼は「ある男」を配置していたのである。
それは、曹操に恩義を持つ関羽であった。
物語はいよいよ、個人の「義」と天下の「利」が交錯するクライマックスへと向かっていく。
(第10話・完/第11話へ続く)




