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三国志  作者: 本間敏義
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第11話:華容道の決断

第11話:華容道の決断

 赤壁の戦いは、孫劉連合軍の圧倒的な勝利に終わった。長江を埋め尽くした曹操の軍船は灰燼に帰し、八十万を誇った大軍は霧散した。かつて天下をその手に収めようとした「治世の能臣、乱世の奸雄」曹操孟徳は、今や数千の敗残兵を引き連れ、凍てつく泥濘の中を這うように逃走していた。


 しかし、逃げ道の先々には、まるで未来を見通していたかのように、諸葛孔明の放った伏兵が待ち構えていた。


 最初の難所では趙雲が、次の要衝では張飛が、それぞれ曹操の退路を断ち、その都度、曹操は愛馬を駆り、臣下を盾にして死地を潜り抜けた。


 そして、曹操の前に最後に立ちふさがったのが、険しき難所・華容道かようどうであった。


 この地には、劉備軍の中でも最強の武勇を誇る男、関羽雲長が配置されていた。


 軍議の席で、孔明はあえて関羽にこの場所を任せようとはしなかった。


「雲長どの、貴殿はかつて曹操に手厚い恩義を受けた。命からがら逃げてくる彼を見れば、その『義』に動かされ、逃がしてしまうのではないか」


 関羽は眉を逆立て、烈火の如く反論した。


「私は義を重んじますが、今は劉備兄上のため、公の法を優先します。もし曹操を逃がすようなことがあれば、この首を軍法に捧げましょう」


 関羽が署名した「軍令状」を手に、孔明は静かに微笑んだ。しかし、その瞳の奥には、曹操を生かして帰すことで、呉の勢力が強大になりすぎるのを防ぐという、さらなる深謀遠慮が隠されていた。


 一方、曹操一行は、泥沼のような華容道に差し掛かっていた。降りしきる雨と飢えにより、兵士たちは次々と倒れ、絶望が軍を支配していた。


 曹操は、あえて高らかに笑ってみせた。


「孔明も周瑜も、やはり若造よ。もし俺が軍師なら、この道の出口に伏兵を置く。それがないのだから、奴らもたいしたことはない」


 その笑い声が、虚しく木霊した。


 突如、一発の号砲が響き、山陰から一隊の軍勢が姿を現した。


 中央に立つのは、五色に輝く鎧を纏い、最高級の錦の衣を羽織った偉丈夫。手には冷たい光を放つ青龍偃月刀。そして跨るは、かつて曹操自身が贈った天下の名馬、赤兎馬。


 関羽雲長であった。


「……万事休すか」


 曹操の側近たちは武器を落とし、戦慄した。疲弊しきった今の曹操軍には、万夫不当の関羽と戦う力など、一欠片も残されていなかった。


 曹操は覚悟を決めた。馬を進め、関羽の前に出ると、静かに頭を下げた。


「雲長どの、息災であったか」


 関羽は冷徹に言い放った。


「軍師の命を受け、曹公を捕らえに参った。潔く道を明け渡されよ」


 曹操は、あえて戦おうとはせず、関羽の「心」に訴えかけた。


「君子は、一度の恩を一生忘れぬと聞く。かつて貴殿がわがもとにいた時、私は貴殿を最上級の礼で迎え、五つの関所を破って去る時も、追撃を許さなかった。今の私を見よ。兵は疲れ果て、もはや戦う術もない。どうか、かつての情けを思い出し、この一度だけ、道を開けてはくれまいか」


 関羽の心に、激しい葛藤が突き上げた。


 目の前にいるのは、漢王朝を簒奪せんとする逆賊である。ここで討ち取れば、兄・劉備の天下への道は一気に開ける。しかし、かつて受けた手厚いもてなし、赤兎馬を贈られた時の喜び、そして別れ際に自分を許してくれた曹操の寛大さが、重く胸にのしかかった。


 関羽は目を閉じ、天を仰いだ。


 軍法に従えば、曹操を逃せば自分は死罪となる。桃園の誓いで「死す時は同じ日」と誓った兄たちを悲しませることになる。しかし、「義」に背いて生きることは、関羽という男の魂を殺すことと同じであった。


「……行け」


挿絵(By みてみん)

 関羽は重い口を開き、赤兎馬を横に寄せて道を空けた。


「将軍、何を!」


 配下の兵たちが動揺したが、関羽は青龍偃月刀を地につけ、微動だにせず曹操の軍勢を見送った。曹操は言葉を失い、何度も振り返って関羽に礼を言いながら、嵐のようにその場を走り去っていった。


 その後、関羽は自ら縛りにつき、劉備と孔明の待つ本陣へと戻った。


「軍法通り、私を処刑してくだされ」


 関羽は潔く膝を突いた。激怒した孔明が処刑を命じようとしたが、劉備が割って入った。


「先生、弟の首を撥ねるなら、私の首も一緒に撥ねてください。我ら三人は、死ぬ時は一緒だと誓ったのです」


 孔明は溜息をつき、剣を収めた。


「雲長どのの義気、そして主君の慈悲。これ以上、私が口を挟むことはありますまい。曹操を逃したことは天下の損失ですが、これによって天下三分への布石はより確実なものとなりました」


 実はすべては孔明の計算通りであった。曹操がここで滅びれば、その領土はすべて呉の孫権に奪われ、劉備には何も残らない。曹操をあえて生かし、魏・呉・蜀が均衡を保つ状態を作り出すこと――それが「天下三分」の真の完成であった。


 赤壁の戦いは、曹操の敗走という形で幕を閉じた。


 しかし、それは平和の訪れではなく、三つの勢力が互いに牽制し合い、さらに壮絶な領土争いを繰り広げる「真の三国時代」の幕開けであった。


 次回、最終回。


 蜀の建国、そして五丈原に散る天才軍師の最期。


 三国の英傑たちが駆け抜けた時代の終焉を描きます。


(第11話・完/第12話へ続く)

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