第五十九話 海底にて
饕界と餐界
どちらも「オルムディア超個体群」そのもの或いはそれによってもたらされた災害のことを指す。
エルディアは饕界、エストライは餐界と表記することが多い。実はこのズレは単なる誤植から始まっており、発覚時にはエストライ側が既に多数の公文書などでも使ってしまっていたため、表記揺れという形で決着している。
ちなみに本来の意味はほぼ同じで、饕の方がやや意味合いとしては強い程度。
ー出典:Nelt百科事典
―惑星シラーナルⅢ エーコル諸島近海 海底約320m
艦内時刻 午後2時22分
ほとんど光の届かない海底は、物音ひとつ聞こえなかった。
この星には元々魚一匹存在しない。唐突にテラフォーミング装置の実地試験が中断され、その画期的な装置は待機状態のまま放置されている。微生物や植物、一部の固着性の動物類の種などは散布こそ終わっていたものの、移動性の動物類の搬入はもうしばらく経過観察を行ってからの予定だった。
お陰で天敵も管理する人間もいない動植物たちは好き勝手に繁茂し、陸地には森を、浅瀬には見事なサンゴ礁を作り上げている。
それでも日光の届かない深海は植物たちにとって生きにくい環境のようだ。海底に広がる景色のほとんどは無骨な岩肌に覆われている。長い時間を掛ければ徐々に砂地が積もっていっただろうが、星の大半が忌々しい饕界どもに覆われている今となっては現実的ではない。
かつてのブリッジで、ディスプレイに投影される外の景色を見ながら初老の男は考えを巡らせる。以前は豊かだった黒髪はすっかり萎えて白っぽくなり、手指にも皺が増えてきた。それと同じくこの艦も徐々にガタがき始めている。
「…行ったか…」
つい先ほどまで喧しく鳴り響いていた水中の探査音も、海面上を探るように周回を続けるレーダーの反応もすっかり消えた。
それからきっかり4分待ち、右側の座席へ目線を向ける。するとこちらにじっと視線を注いでいた女性と目が合った。
「…もういいだろう。クウラ、艦内の警戒態勢を解除してくれ」
クウラと呼ばれたその女性は、元気よく返事をするとかつて船務長が使っていた艦内放送用のマイクを手に取る。
「え〜未確認勢力の撤退を確認。警邏の皆さんは警戒態勢を解除。繰り返します。先ほどの非常警報は解除されました。警邏の皆さんは警戒態勢を解除してください」
マイクを収めるガチャリという音がスピーカーから響くと同時に放送が切れた。時を同じくして息を殺していた艦内に再び音が帰ってくる。
「ふぅ…今回は厄介でしたね…」
クウラはそう言うと、空調が効いているにも関わらず袖で額を拭う。こちらのソナーが拾う探知音がブリッジに響いている間はかなり緊張していた分、今は普段よりも顔が緩んでいた。
「そうだな…」
やっと行ったという開放感から表情が緩むのも無理はない、そう思う。しかしそれとは裏腹に、男の内心はどんよりと曇っていた。
ここまで執念深く探しているとなれば、見つかるのも時間の問題だろう。いや、むしろ今回で完全にここが露見した可能性も高い。
艦をまた移動させる必要がある。頭の中で候補地を探していると、後ろからの声が思考を遮った。
「…あれは饕界じゃないです…よね…?」
振り返るとクウラが席に座ったままこちらを見ている。見開かれた橙色の瞳には、不安と少しばかりの期待の色が浮かんでいた。
「…そうだろうな」
短く相槌を打ってから再びディスプレイに向き直る。
幾ら饕界が進化する生き物だとしても、海中に子機を投下して海底を探る、なんて手法をいきなり編み出すとは考えにくい。
そもそも奴らは生命体だ、なのに今回の招かれざる客からは、全くと言っていいほど生命反応が観測されなかった。
まるで無人機だ。となると飛ばした文明が居る。それもこんな辺境の化け物に侵食された惑星に。
「…本当に、本当に行かせてよかったんですか…?もしかしたら、救援だったかも…!」
「それはないだろう」
クウラの言葉を、自分の中に一瞬だけ浮かんだ希望的観測と一緒に否定する。
エルディアは亡んだ。主要な星系も守り通せず、ついには母星さえ陥落し、星と共にあの国は滅んだ。もうここを知る者も、我々の同族も宇宙のどこにもいないだろう。
「それに」
と男は続けた。
「ここから出たところで、今更どこへ行こうというんだ」
もう帰る場所などない。
艦内は一時の中断を挟んだものの、再び日常のざわめきを取り戻しつつあった。
一方で上部のブリッジは二人の間に重苦しい沈黙が降りた。
その沈黙を破ったのは、勢いよく開いたブリッジの扉が、端のストッパーにぶつかった金属音だった。
この扉、元々は電動だったのだが、しばらく前から故障してしまい、最近は手動でなんとか開けていた。そもそもブリッジはそうそう使う場所でもない。修理の優先度はかなり下げられていた。
そんなそこそこ重い扉を、ここまで勢いよく開ける人物は一人しかいない。
「ダナンさん!あの音ぁ観測球だよ、間違いねぇ!」
背後の扉を振り返るより先に、艦外にまで響くのではないかと思うほどの大声が鼓膜を震わせる。
視界の端でクウラが思わず両耳を押さえているのがチラリと映った。耳がいい若者には少しばかり酷なようだ。
「そうだろうな。だがエルディアの物ではなさそうだ」
ダナンはそう言いながら、入り口に立つがっしりとした男性を見据える。
ヴィーノスは根っからのエンジニアだ。元々機関長だったこともあり、この艦の機関から何からを知り尽くしていた。
そんな彼が言うのだから、さっきのアレは人工物で間違いない。問題はどこの誰が落としていったのか、目的は何なのか、ということだ。
「ああ、少なくともエルディア帝国のもんじゃねぇ。ただ何故かこっちの遮蔽幕に勘付いてやがった、何者かは知らんが技術力は確かだぞ」
ヴィーノスはエルディアのものではない、という点には同意しつつ新たな視点をもたらした。
考えてみればそうだ、広い海の中でこの一点だけを執拗に偵察してきた理由。上空からでも勘付くに足る何かがあったに違いない。本来であればこの艦の電磁遮蔽幕によってレーダーに映らないはずなのだ。
「…確かにそうだ。…目的はなんだと見る?」
いつの間にか俯きがちに下に向いていた視線を、再びヴィーノスの方へ向ける。
「さあ?ただ、こんな高度まで偵察機を下ろせるんだ。あの化けもん共に勝てる相手なんじゃなかろうか」
或いは敵対していない文明か、と彼は肩をすくめて答えた。
軌道上の饕界共を排除し、わざわざ偵察機を降下させ、海底に潜った人工物を調査する。
行動原理が理解できない。
もしやとっくに饕界はこの星から姿を消していて、単に近場の国が入植可能かどうか観測に訪れただけなのか。
それとも地図作りや探検を生業とする集団でもいるのか。
はたまた…我々と同じようにどうにか生き延びた同胞が、何処かから得た情報で生き残りを探しているのか。
想像が膨らむばかりで、どれも決定的な根拠に欠けている。
救援にしては全く通信の類がなかったのが気にかかる。生存者を探すなら無線なり音声なりでその旨を大音量で流しそうなものだ。でないと探される側が気付けないかもしれないだろうに。
饕界がもういないなら、徐々に大気汚染は和らぐはずだ。しかし、直近の観測でも汚染は増すばかり、雲も黄色いままだった。
饕界を退けてまで星の地図を描きたい狂信的な集団なら、かえって会わないほうが得策かもしれない。
突然流れ始めた電子音が、長考に入ったダナンの意識を現実へ引っ張り戻す。
「わ、えっと…さっきの件で会議したいから集まってくれ、だそうです」
黙って二人のやりとりを眺めていたクウラが、おずおずといった感じでダナンを見やる。
「わかった。ヴィーノス、行こうか」
ひとまず思考を切り上げて後ろを振り返った。
一人で考えても仕方がない。委員会で会議をするのであればどのみち考えることだ。そこで悩むとしよう。
三人がかつてのブリッジを後にする。
十数秒経ってから、照明が自動的に落ちた。




