ー幕間ー 細波
―海皇都 横瀬区 第三ふ頭
昨日の大雨が嘘のように海は凪いでいた。塵や花粉が洗い流された空は澄んでいて、水平線までくっきりと浮かび上がっている。普段は霞掛かって見えない遠方の島々も今日はやたらと存在感を発揮していた。
「アー。アー」と降ってくる音に釣られて空を仰ぎ見れば、数羽の海鳥が薄っすらと見える軌道上のドッグを背にして弧を描いている。
やはり白という色は、鮮やかな青を背景にした時が一番際立つ。
そんなことを考えたまま空を見上げていると、突然雲の隙間から差し込んだ強い日差しに目をやられた。思わず目を瞑って下を向く。暗転した視界の中でチカチカと光の残像が瞬いた。
瞼を閉じていると自然と周りの音が耳に入ってくる。
岸壁に打ち寄せる波の音や飛び回る海鳥の声。転落防止に設置された防護柵の隙間を風が吹き抜ける音、はるか遠くから高速船の警笛も聞こえる。そんな音に交じって誰かの足音が聞こえた気がした。
「…やっぱりここに居た」
その足音は一度立ち止まった後、ため息交じりの声と共に再び近づいてくる。
ようやく視界が落ち着いて目を開けた。足音と声の主には心当たり、というよりも誰かわかってはいたが、数度目をしばたかせつつ振り返る。
「一瞬泣いてるかと思っちゃった」
予想通りというべきか、海風に煽られる白い長髪のくせ毛を手で押さえつけたイルミナが立っていた。
その様子を見て初めて今日はいくらか風が強いことを意識する。
「丁度日が差してきたんだよ」
先ほどまでの自分の行動を振り返ると、確かに後ろから見れば泣いているように見えなくもない。
背後で一度足音が止まったのはそのせいだろう。
「今日はどうしたの?」
隣で柵にもたれ、海を眺めながらイルミナはこちらを見もせずに言った。
どうやら俺がここに来るときには、決まって何か悩みがあると思っているらしい。残念なことに正解だ。
「何が…ってほどじゃない…色々あってな…」
同じように柵にもたれ、光を浴びて時折鋭い閃光を放つ波間を眺める。
海の波は常に形を変えながらも、遥か昔からずっとそこに在るしこれからも在り続けるだろう。少なくとも、この星が星としての姿を留めているうちは。
「信じてないの?」
首と目だけがこちらへ向いた。
内容のわりに口調は穏やかで、咎めているというよりもこちらの視野を広げようとしているのが分かる。
澄んだ琥珀色の瞳に見つめられると、時折こちらの考えを全て見通しているのではないかという錯覚に陥る。魔法などではなく、純粋な付き合いの長さと経験則からくるのが余計に厄介だ。
「信じてるさ、あいつらのことは」
だからこちらも、わかってくれる前提で返す。
「…間違っても良いって言ったと思うけど?」
少し目を細め、ジトっとした目つきで顔を見つめてきた。
声もどこか不満げだ。
「…たった数機だ」
視線を足元の岸壁にあたっては跳ね返る波に落とし、ため息混じりに漏らす。
「たった数機食われただけで、あんなのが生まれた」
今朝送られてきた空母型の画像を思い出しつつ続けた。
空母を直接観察したわけでもないだろうに、艦載機からのデータだけで母艦という概念に辿り着いている。
「…怖い?」
イルミナの問いかけに、即答することはできなかった。
自分で自分がどう考えているのかわからない。恐れか、焦りか、はたまた闘争心か、扱いに困る感情が胸の中で蟠る。だからこうして、逃げるように海に来たんだ。
「私も…そりゃあ怖いわよ」
沈黙を肯定として受け取ったのか、イルミナは視線を波間に向けたまま言った。
「…俺たちは、アイツらのことを全く知らない」
するりと言葉が漏れる。
人は未知を恐れる。それが敵対的ならば尚更だ。
でも、これだけが原因ではない気がした。
「誰かを死なせるのが怖いんじゃない?」
その言葉が、ストンと腑に落ちた気がする。
こんな立場にいる以上、人が死ぬことは理解していたはずだった。現に戦死者はこれまでにも出ている。
でも、自分が本当に恐れているのは単に戦死者が出ることじゃないことに気がついた。
親しい仲間を失うことを恐れている。直接会って、話して、仕事以外の話なら笑いあえる仲間を、自分の判断ミスで失うことが何よりも恐ろしかった。
「…そうだな…全く、頼りにならないなぁ…俺って」
海から目を背け、今度は柵に寄りかかって反対側の空を眺める。遠くで定期便の旅客船と思しき艦影が空を滑っていった。
国のためならば誰が死のうとも厭わない苛烈さも、戦死者一人一人を心から弔える公平さも持ち合わせていない。どっちつかずな半端者。
「こらこら、すーぐネガティブになるんだから…」
腕が軽く小突かれる。
目をやると、またもや綺麗な瞳と目が合った。
「いい?あなたはちゃんとやってる。そもそも何万人もいる軍人一人一人の命も、この国に住んでる一兆近い人々の命も、背負えるほど背中広くないでしょ?」
わかっている。一人で担える責任の重さには限界があることも、世の中にはどうしようもないことが沢山あることも。
それでも、それでも。最終的に部下を死地へ送る判断を下すのは俺だ。
常に冷静で、二手三手先を読める総司令。そんな仮面を被っていても、内心穏やかではない。
遥か遠くを眺めていると、突然視界に端正な顔が割り込んできた。視線に真っ直ぐ射竦められ、思わずたじろぐ。
目は口ほどに物を言う、という慣用句がある。呼んで字の如く、目というのは意外と感情が表れやすい部分で、親しい間柄なら黙っていてもなんとなく言いたいことがわかることもある。
要は今目の前にいるイルミナが、若干怒っているということぐらいすぐにわかる、ということだ。
問題はなぜ怒っているのか、だが。
「…遠くじゃなくて、こっち見なさいよ」
流石に驚いた。
予想していた理由とあまりにも乖離している。
「私が、あなたに話してるの」
そう言いつつまた一歩距離を詰めてきた。
だいぶ怒ってるかもしれないなとか、こんなことする性格だったっけとか、ちょっと近くないかとか、思考が矢のように流れていく。相変わらず綺麗な顔してるなとかいう呑気な考えは即刻叩き出した。
「…分かった…」
圧に押されて頷く。
「よろしい」
満足げに頷くと、なぜか少し慌てたように数歩下がった。
ひとまず先ほどまでの圧が消えたことに安堵する。
「もっと頼れってことか?」
安堵した勢いそのままに投げかけた。
「そう、あなたは前線を気にしていれば良いの。後ろは私が守るから」
どうやら正答を引けたようである。
と言ってもここまで言われて気づかないほど鈍くはない。…本来ならもっと前に気づくべきだったという正論は一旦置いておくことにする。
「そろそろ戻らない?もうお昼よ?」
時計を取り出してイルミナが言う。
言われてようやく、胃が中身を求めていることに気がついた。
「じゃあ、戻るか」
長らく体重を預けていた柵から腰を上げる。
もしも、その時が来たら、俺は彼女を盾として送り出せるのだろうか。
ふと過った疑念を慌てて振り払う。最悪の事態について深々と考えてもそこまで意味がない。そうならないように今最善を尽くすだけだ。




