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退去時の不動産屋との立ち会いは後日になり、帰ることにした。
都会を遠ざかるにつれ、満点の星空だった人家の灯りはどんどんと寂しくなっていった。やがて黒い山と樹木しか見えなくなる。決意した。次に見えた灯りがホテルだったら誘おう。決意といってもその程度だ。
「寄っていかない?」
宇田はけして逆らわない。
「ちょっと待っててください」
手前のコンビニに車を駐め、宇田は食料を調達してきた。レジ袋からおでんとサンドイッチ、ビールの缶が覗く。出汁のいい香りが車の中に充満した。
「ああ。お腹空いてたの、気づかなかった」
「どこかで食べてくればよかったですね。山の中は何もないから。コンビニがあってよかった。あ、そうだ、これ」宇田はポケットから紙片を取り出した。
「なに?」
「すみません、忘れてて。リサイクルショップでキャビネットを検品してもらったときに引き出しの隙間に挟まってました。捨てていいのかわからなくて」
それは樹が買い物をしたさいのクレジットカードの明細書だった。
「わざわざありがとう」
律儀な男だ。捨てるわけにもいかず、大切なお守りであるかのように財布にしまうしかなかった。
部屋に入るなり、宇田は上着を脱いだ。
「すみません、汗搔いたんで先にシャワーを浴びてきます」
唸るような空調の稼働音を聞きながら、宇田を待つ。その間にレジ袋の中身をベッドに並べた。聖なる儀式に捧げる供物のようだ。
湯気をまとった宇田は供物の向こう側に腰掛けた。
「お待たせしました。食べましょうか」
二人で食事をするのはこれが初めてだ。ラブホテルの一室で、コンビニおでんを缶ビール片手に分け合う相手はバスタオル一枚腰に巻いただけの中年男性。
「サラダは買ってこなかったの」
「すみません、気が利かなくて」
がんもを囓ると出汁汁がじゅわっと染みだした。威容に美味しく感じる。だが宇田が喜ぶだろうことは素直に口にできなかった。
宇田を見ると、牛すじ串を嬉しそうに食んでいる。この男は妻が作る家庭料理よりもコンビニおでんの方が好きなのかもしれないと思った。
「今日はつきあってくれてありがとう」
「私でお役に立てるならいつでも呼んでください。樹さんの人となりも知ることができましたし、お手伝いできてよかったです」
「人となり……でも、あの真知って子が言ったことはちょっと大袈裟というか、若い感受性が求めた幻というか」
「でも、そういう一面もあったのかもしれませんよ。ご家族の知らない顔があっても不思議でないでしょう」
だとしたら家族でないほうがよかったのかもしれない。私と両親は損をしている。
弟が、ある人にとっていい人であっても、他の人にとって悪い人であっても、宇田の家族に殺されたことは変わらないし、法律上は同じ重さの『人』でしかない。
「年中、親に注意されたんですよ。樹のようにならないでくれって。私は姉なのに。弟はあの子ぐらいの歳からグレていたから。グレて……というか、ぐるぐるしていた」
「ぐるぐる?」
「親や学校や、友人の期待から身を避けること。すごくひねくれてたのよ」
弟のようにならないでくれと言われたのでいつも弟を見るはめになった。駄目な見本。見本は目をそらしたら見本にならない。そして同じように、弟も私の回りをぐるぐる回っていた。一定の距離を取って。弟にとって私は『普通』だったから。
「磁石のN極とS極のようですね。家族はそういうところがあるかもしれません」
宇田になにがわかるのか。私は普通じゃないし、世の中の誰も普通じゃない。弟を礼賛する中学生が現れたって、弟を誇らしく思う気持ちにはなれない。宇田の罪悪感が増しただろうことに胸をときめかせているくらいだ。
「うちのは一人息子だから、甘やかしてきたのかと妻と反省の日々なんですよ」宇田は空になった缶ビールをゴミ箱に入れずに床に落とした。「おとなしくて優しくて、キレたことなんかなかったんですよ……なのに、なぜ……」
「それこそ、お家の人には見せない一面があったということでは」
「ずっとずっと考えてたんです。なんでキレたのか。仕事も順調で友人もたくさんいて結婚も決まっていて、なのに……」肩を落とした宇田はゆらゆらと一定のリズムで左右に揺れている。「私も妻もキレたことないんです。夫婦喧嘩だってしたことがない。もちろん、私が知らない妻の一面があるかもしれないのは承知しています。生まれついた性質か、生育環境に問題があったのか。妻は妻で、瞬間的になにかが憑依したとか言い出すし……頭がおかしくなりそうだ」
「樹が人をイラつかせる天才だったのよ。火種は間違いなく樹のほう。だから……」
深刻に考えなければいいのに、と思った。誰だってきっかけがあればキレるし、人を殺せる。宇田は責任を感じている。息子の罪を一緒に背負うつもりなのだ。
やめたいと言い出すだろうか、遺族と加害者家族との罪深い共犯関係を。
やめたいのならはっきりと言えばいい。どうせならキレてみなさいよ。
だがそうはしないだろう。宇田は良い父親である。息子の刑の減軽を望んでいる。公判が終わるまでは遺族を怒らせまいと考えるはずだ。
それだけではない。被害者の家族と加害者の家族は対立しているようでいて、実は同じ痛みに苦しむ共感者なのだ。
「息子を理解したいとずっと考えてきました。殺したいと衝動的に思うことは誰にだってあるんだと思うんです。ですが実際に殺す……殺そうと体を動かす行為はもっとずっと遠いところにあると思うんです。そう考えたら息子が、手の届かない遠いところに行ってしまった気がして」
うつむいた宇田はなんと愛おしい存在なのかと思う。息子の犯した罪に苦しみ、理解してあげたいとずっともがいてきたのだろう。
「ねえ」手を伸ばして宇田の骨張った肩に触れる。自分の手のひらが熱を持っていることがわかる。
宇田がふと顔をあげてこちらを見上げた。
目と目が合う。宇田の目の中に火が移った、と気づいた瞬間、宇田は二人の間にあった飲食物を払い落として間を詰めてきた。
宇田の足の下でたまごサンドイッチがぺちゃんこになった。
私を押し倒して馬乗りになった宇田は右手を振り上げた。右手は拳を握っている。
いや、串を握っている。
「人を、殺すということを、私は、ずっと考えて」
あの串が私の左目に突き刺さるさまがすんなりと想像できた。殺意がびりびりと伝わってくる。痺れたように動けない。
「息子と同じように、こうやってみたらわかるかもしれないと、ずっと、想像して」
宇田の右手も、しかし宙に留まっている。ぶるぶると震えて、抗っている。
弟が焼き鳥の串で目を貫かれて死んだと聞いたとき私が思ったのは、自分には真似できない死に方をしたものだ、だった。弟の出演する三文芝居を観ている観客の心持ちだった。宇田も観客の一人だと思っていた。
「宇田さんは私を殺したかったんだ、ずっと」
否定の声はなかった。家族に恵まれない同士だからとひそかに連帯した気になっていたのは私だけだった。
宇田のバスタオルはいつのまにかなくなっていて萎縮したものが目に入った。
「ああー、くそ!」
宇田は串を放り出すや、私のお腹に激しく頭を打ちつけた。何度も何度も。ヘドバンして疲れたのか、ベッドからずり落ちると薄汚れたカーペットに大の字になった。ぶつぶつとなにか呟いているが聞き取れない。あるいは空調の稼働音かもしれない。
宇田はぐるぐるとした渦のなかに落ちた。
滑るように足先が床についた。海水に触れたようにひやりとなった。
「本当は、殺したいんじゃなくて、死にたいんじゃないの」
「たいして違わない。華さんは違うのか。同じだと思ってたのに」
宇田は静かに泣いていた。裏切られて悲しいといった顔を向けてくる。
ベッドで、ときに乱暴だったのは、私を殺す妄想で昂ぶっていたのかと合点がいくと、裏切られたのはこちらではないかと腹が立った。
「殺される側じゃない。私はどちらかというと」
首に手をかける真似をすると宇田は息をとめて目を瞑った。観念したかのように。潮騒のような宇田の呼吸音が耳障りだ。
そのとき浮かんだのは殺意ではない。無から生まれたものが、また無に帰ってしまった寂しさだ。
「さようなら」
精算してドアを開け、外に出てタクシーを呼んだ。




