56 鹿の肉
「しかしまぁ、伯爵家に嫁入りした女性がこんなに細い腕でいったいどんな料理を作るというのでしょうね。鍋を持ったら折れそうだわ」
「お言葉ですが、こう見えて腕力には自信があるんです。お義母様の教えで、毎日バケツに入った水を一階から二階まで三往復ほど運んで掃除をしていますから」
「………あぁ。そうでしたねぇ」
イボンヌは白けた顔でジロリと見下ろす。
厨房の中にはなんとも形容しがたいギスギスした空気が流れている。きっとメイドたちは一刻も早く料理を仕上げてこの空間から解放されたいはず。
ペチュニアから指示があった通り、私たちは今、鹿肉の調理に取り掛かっていた。どこから貰ってきたのか分からないが、下処理など含めて相当面倒であることは想像に容易い。
「あの………」
小さく絞り出した声に、イボンヌはこちらを見た。
「リュシーさんは戻って来ないのでしょうか?」
「はい?」
「前メイド長のリュシーさんです。彼女には良くしてもらっていたので、せめて最後の挨拶をしたかったと……」
「屋敷を去った人間は戻りません。それに、彼女ったら旦那様に色目を使っていたんですよ。健康管理だかなんだか知りませんが、旦那様にだけ糖質を控えた食事を提供したいとか。夫に逃げられてお金に困っているんだわ」
メルトン・リュシーの悪口を捲し立てるように話し続けるイボンヌを見て、私は口をつぐむ。
もう一度会いたかった。
病院でお見舞いに来てくれたのが最後になるなんて思いも寄らなかったし、彼女の存在はヘルゼン伯爵家における唯一の希望だった。
メルトンが家族の体調を気遣った食事を提供するのはバッカスに限ってのことではない。一度目の人生でも、彼女は不調を訴えた私に薬草を使ったクッキーを作ってくれたし、食欲がないときは温かなスープを部屋まで運んでくれた。
「リュシーさんはそんな人ではありません」
「………貴女は人の話が分からないようね」
「私はただ偏見で人のことを語るのが好きではないだけです。ここに居るメイドたちはきっと、リュシーさんの本当の人柄をご存知でしょうけど」
後ろをサッと振り返ると、メイドたちは困ったように俯いて互いの様子を窺っていた。そう簡単に本音など言えるはずもないだろう。
短く息を吐いて再び姿勢を正した私の前で、イボンヌ・イワノフは引き攣った笑みを浮かべていた。
「あまり……私を敵に回さない方が良いですよ」
「え?」
突然低くなった声に私は眉を顰める。
イボンヌは大きな包丁で鹿肉を切り分けながら、私の方は見ずに話し続ける。不自然に釣り上がった唇から漏れる言葉に耳をそばだてた。
「昔、貴女のように挑戦的な態度を取る女主人が居ました。私よりずっと後から屋敷に来たくせに、作る料理にあれこれと口を出して来て、私の厨房で勝手に料理を作ったり……」
恨み辛みのように紡がれる話は単なる彼女の不満であることが明らか。捻じ曲がった考え方を恐ろしく思いながら、私は野菜を洗うことに専念していた。
メイドたちもそれぞれの分担に取り掛かっていたから、イボンヌの囁きは聞こえていなかったと思う。ブツブツという声が微かに聞こえる中、私は聞き捨てならない言葉を聞いた。
「だから、追い出してやったんです」
喉の奥から絞り出したような笑い声が続く。
そしてすぐに厨房の物音がそれを掻き消した。
私は作業を止めてイボンヌの方を向く。
大きな塊だった鹿肉は、今やひと口サイズに小さく切り分けられており、切り口には赤い血が滲んでいた。パラパラと振られていく塩を呆然と眺める。
「生意気な女……ちょっと噂話を流したら、すぐに逃げ出した。坊ちゃんには悪いことをしたけれど、厨房は私の城なんだから当然の報いだ………」
「イボンヌさん……?」
ハッとしたように我に帰った女は、わざとらしい咳払いをした後で「胡椒をたっぷりかけないと」と言いながら棚の方へと歩いて行った。
胸の奥がザワザワする。
関係ないはずの二つの話が頭の中にあった。
今、私は頭の中でセドリックの話を思い出している。公爵家に嫁いで、先妻の息子を危険な目に晒した罪悪感から自ら命を絶った彼の姉のこと。
確認を取る必要が、あるのかもしれない。




