第394話 嘉兵衛は、虎松に思う
永禄9年(1566年)10月上旬 尾張国古渡城 松下嘉兵衛
皆がゆっくり休めというから、しばらく城下の遊郭で打ち合わせを兼ねてのんびり『うふふん』や『あははん』なパラダイスを楽しんでいたのだが、仙千代が熱を出して倒れたと聞いては城に戻らなければならない。
「では、例の件。くれぐれもおとわにバレぬようにな」
「承知しました」
俺は店の主たちにそう最後に念を押して、城に戻ったのだが……そこはまさに戦場であった。
「あ、父上……」
「虎松、仙千代が倒れたと聞いたが、どうしたのだ?」
「それが……帳簿の理解度を確認するために試験をしていたのですが、突然『やってられるか!』と叫んで倒れてしまって……」
「ちなみに、その試験とはなんだ?」
「これにございます」
「こ、これは……」
その昔、井伊谷に居た頃、井伊家の財政を把握するために導入した簿記会計。虎松が差し出したのは、但馬守殿の理解度を確認するために用意した『上級編』の試験問題集だった。一体どこからこんな物をと思っていると、あずさが見つけて「あんた、必要だから読みなさい」と渡されたそうだ。
「ちなみに、虎松は全部理解できているのか?」
「はい。わからないところは弥八郎や小一郎に訊きながら学びましたので」
「そうか……」
これが理解できたなら、前世の世界で簿記二級は取れるはずだが、虎松はまだ9歳だ。熱を出して倒れる仙千代が普通であって、この子もまた異質な存在と言えるだろう。
ゆえに、俺は確認する。もしかして、未来からやって来たのかと。
「あの……ごめんなさい。父上、何を言っているかわかりません。そもそも、時間を逆行することなど可能なのですか?」
「そうだな、普通なら可能ではないな。しかし、おまえ……これがその年で理解できるのは異常だぞ?」
「そうでしょうか。姉上はもっと凄いので、正直申し上げてこの家を僕なんかが継いでいいのかと思うほどなのですが、僕が異常……じゃあ、姉上も?」
あずさの異常は、その原因が俺と同じく前世持ちという事で判明しているが、この様子だと虎松は前世持ちではなさそうなので誤魔化すことにした。即ち「我が家の子らはどうやら天才ぞろいのようだ」と言って、虎松の頭をなでる。「がんばったな」と一言添えて。
「あ、ありがとうございます」
「しかし、虎松よ。仙千代に同じ事を求めてはならぬぞ。いや、他の者に対してもだ。頭の良いそなたなら既に分かっていると思うが……」
「はい。ちょっと厳しかったと反省しています。なので、本日15人の家臣に腹を切らせる準備を進めていたのですが、取りやめて寧々のキノコ汁を飲ませる事にしました。あと、財産没収刑に処した連中も娘の貯金箱は流石にかわいそうなので、それだけは見逃すようにとも……」
「反省した割には、全然減刑になっていないぞ。何をやったかは知らぬが、俺が再検討するから執行そのものを取りやめよ」
「わかりました。では……書類をお渡ししますので、後はお願いしますね」
虎松はお藤に促してそれらの書類を取りに行かせたが、待っている間に再び話を仙千代の事に戻した。
「年が明ければ、仙千代は元服して桑名に別家を立てる。訊いてはいなかったが、もしかしてその事にそなたは異論があるのか?」
「ない……と言えばうそになります。仙兄ぃは、僕の側に居て支えてくれると思っていましたので、何だか裏切られたような気分です」
「そうか。それは説明していなかった俺の責任だな。許せ」
「いえ……」
「しかし、長い目で考えたとき、これはそなたのためでもあるのだ。この先天下が治まれば、戦いの舞台は幕府内の政となる。その時に必要なのは裏切らない味方だ」
「ただ、そうは申されますが、父上はその裏切らないはずの弟に裏切られたのですよね。そのことを踏まえて、血縁にどれほどの信用があると?」
「それでも……全くの赤の他人に信頼を求めるよりかは可能性がある。俺はおまえにその可能性を残したくて、4万石を分与することにしたのだ」
もちろん、すぐに納得することはできないかもしれないし、このような心遣いは無駄に終わる可能性もある。しかし、俺は撤回しようと考えてはいない。そんな事を思っていると、目の前に書類がどさりと置かれたのだった。




