第393話 仙千代は、領主の重みを知る
永禄9年(1566年)9月下旬 尾張国古渡城 松下仙千代
本丸御殿を訪ねると、多くの者が忙しそうに俺とすれ違う。無理もない、この古渡城は年内に今川の御屋形様に引き渡すことが決まっていて、荷造りのみならず、引き継ぐべき帳簿、文書の整理が必要となれば。
しかし、そんな風景も俺にとっては他人事だ。来年の正月に元服して、俺は伊勢国桑名城に入ることが決まっている。喜兵衛殿を家老に迎えることはできなかったのは不満が残るけど、それでも独立して松下本家を再興できるのだ。嬉しくないはずがない。
「仙千代にございます。お呼びと聞き、参上しました」
「ああ、構いません。入ってください」
「失礼します」
そして、そんな浮ついた気持ちで大広間に入るとそこには伯父上……ではなく、虎松様がただ一人で黙々と、書類の確認をしては『家内安全』の判を押されていた。ゆえに、いつも側にいる弥八郎殿はいずこに行かれたのかと訊ねてみると、弥八郎殿は弥八郎殿で別の場所で仕事をしているという事だった。
「えぇ……と、こういっては失礼かもしれないが、一人で大丈夫なので?」
「実は僕もそう思うのですけど、『大丈夫。若ならもう一人でできます。だから、ここは任せましたよ。わからないことがあっても、自分で解決してくださいね。やればできる!』……って言われちゃったら、仕方ありませんよね」
「いや、仕方なくはないと思うけど……」
ちなみに、虎松様はまだ9つだ。いくらなんでもこれは無茶ぶりが過ぎると思っていたけど、『決裁済み』の箱の隣に置いてある『差し戻し』の箱には、朱書きで訂正された上に要望事項が丁寧に綴られていて、きちんと全部理解して上で対応しているのが読み取れた。
いやあ、姉のあずさ様といい……何なのだろうか。この化け物姉弟は。
「仙兄ぃ、どうかされましたか?」
「いや、何でもない。……それで、呼ばれたから来たのだけど、何か用だったのでは?」
「ああ、そうそう。仙兄ぃはこの国替えの後、桑名領4万石を与えられると聞きましたので、これをと思いまして……」
「な、なんでしょう?こ、この書類や帳簿の山は……」
「何をって、決まっているではありませんか。桑名領の統治に必要な書類一式ですよ。これを引き継ぎますので、まずは一読して下さい」
「一読って……これを全部?」
「そうです」
「ちなみにいつまでに?」
「いつまでにって……面白いことを訊きますね?」
怖いと初めて思ったこの従弟は、とても冷ややかな笑顔で俺に突きつけてきた。「もちろん、今すぐこの場でですよ」……と。
「いやいや、ちょっと待って。これ全部って、読むだけでも今日一日かかるぞ?」
「じゃあ、その一日をかけて下さいね?」
「あ……い、いや、こ、この後用事もあってだな……」
「我慢して下さい。どうせ、お貞殿と『うふふん』や『あははん』するだけですよね。違いますか?」
ち、違わない。違わないけど、あずさ様とは違ってまじめで大人しかった虎松様の口からそのような言葉が飛び出たことに驚いてしまい、俺はとっさに返答できなかった。すると、容赦なく書類がどさりと目の前に。
「じゃあ、読み終わったら教えて下さい」
「あの……勘弁していただくわけには?」
「4千石ではなく、4万石の領主になられるのですよね?」
「はい……」
「じゃあ、やるしかありません。頑張りましょう。なぁに、やればできる!」
虎松様はその言葉を最後に俺の相手をすることなく、再び書類に向き合われた。時折、「こいつ、僕が子供だからと思って舐めているな、切腹一択で」とか、「数字が合わないじゃないか。めんどくさいけど、娘の貯金箱も含めて財産没収で」とか、物騒な独り言も聞こえてきたけど、だから今なら逃げられるのではないかと考えてしまった。
「あの……変な考えは起こさない方が良いと思いますよ。見ていないようでも、確実に監視していますから」
「へ……?」
「それと、お茶をお持ちしました。どうぞごゆっくり」
気配を感じないまま、聞こえてきた言葉と差し出されたお茶に振り替えると、そこには虎松様の許嫁であるお藤様の姿が。そして、決裁済みと差し戻しの書類を抱えて、再びこの部屋から出て行かれた。
「いやいや、あの書類の山……それなりに重いよね?」
しかし、正面に座る虎松様の反応はない。黙々と独り言を繰り返しながら、処理を進めていく。俺は逃げ場のないこの状況に絶望して、言われた通りに書類に目を通し始めたのだった。




