第389話 瀬名は、天下獲りを秒速で諦める
永禄9年(1566年)9月中旬 近江国勢多城 瀬名
うちの亭主が京から返ってきた。だから、玄関先まで出迎えて、「首尾は如何に?」と訊ねてみる。
「い、一応……銭は借りられたぞ。このとおり、兄貴から証文を貰ったから大丈夫だ」
「そう。それはよかったけど……今、『一応』って言葉が付いたわね。何か条件でも付けられた?」
例えば、借金のかたにわたしを差し出せとか?あの嘉兵衛さんならあり得ない話じゃないけど、それならおとわ姉様に通報すれば済む話……いや、一回くらいはいいかな?
銭5千貫は三木城に本来入るべき米を買い集めるための資金だ。兵糧攻めを成功させるためには何としても確保しなければならないし、このタヌキは最近実験台にし過ぎたせいもあってかあちらがさっぱり使えなくなったし……それにお市ちゃんや佐保ちゃんから聞いた話だと、凄いらしいし……。
「それで、わたしはいつ嘉兵衛殿の元へ参ればよろしいので?」
「何を言っているのだ?」
「借金のかたにわたしを差し出すというは条件ではないのですか?」
「ちがうわ!」
あら……そうなんだ。それはちょっと残念……って、わたしさっきから何を考えているのかしら?
「それで話を戻すけど、この家にはもうわたし位しか差し出すものはないと思うけど、一体何を条件として要求されたの?」
「じ、実はな……条件ではないのだが……」
だけど、次郎三郎の口から出てきたのは、条件ではなくて警戒されているという言葉だった。しかも、わたしが太守様とお屋形様を弑して、竹千代を天下人にって……どうしてそんな話になるのよ!
「次郎三郎!当然、その場で抗議したのでしょうね!!」
「え……抗議?」
「当然でしょ!そんな話が太守様の耳に入ってみなさい。わたしたちはお仕舞いよ!!」
一応否定したと次郎三郎は言うけれども、それでは疑惑を抱かれたままになるわけで後々の事を考えたら厄介だ。
ゆえに、この役立たずのスカポンタンには別室でキノコ汁の新作を味わってもらうことにして、わたしは官兵衛をここに呼ぶ。この者は小寺家から人質として差し出された男だが、頭がいいから重用している。夜の相手はまださせていないけど。
「お方様、お呼びで」
「よく来たな。ちこう寄れ」
話の内容が内容だけにあまり大きな声では言えないため、官兵衛を近くまで呼び寄せて事情を説明した。即ち、太守様の耳に入るのは避けたいが、どうすればよいかと。
「いっその事、わたしが嘉兵衛殿の元へ行って、身の潔白を証明しようかしら?素っ裸になればきっとわかってくれるはずだし……」
まあ、その場合は朝帰りとなるのは間違いないが、竹千代共々殺されるよりかはマシだ。おとわ姉様に銃口を向けられるのは嫌だから、避妊には気を付けなければならないけど。
「ちなみに、お方様にお伺いしますが……本当に太守様を弑して天下を獲るつもりはないので?」
「当たり前じゃない。わたしは太守様の姪であり……第一、そんなに簡単な話じゃ……」
「果たして本当にそうでしょうか?」
「官兵衛?何を言って……」
「実は正直に打ち明けると、紀伊少将様がご懸念の事を某も考えておりました。そして、そのためにまずは厄介なこの少将様を取り込むべく、此度の話も提案したわけで……」
「じゃ、じゃあ、銭も借りる必要がなかったという事!?」
「そうなりますな。ここで欲しかったのは……少将様との縁を強固にする結果です。贈り物も借金もその道具に過ぎません」
背筋がゾクっと寒気が走る中で、官兵衛は続けて言った。「しかし、見抜かれているのであれば、方針を変更せざるを得ませんな」……と。
「方針を変更って……わたしは太守様やお屋形様を弑してまで、竹千代を天下人にするつもりは……」
「わかっております。今のお方様にそのおつもりがない事はこの官兵衛も重々承知しております」
じゃあ、何でこのような危険な事を考えるのかと問えば、官兵衛は答えた。軍師というのは先を読み、主……つまり、わたしがそのような決心をした時のために常日頃から備えるべきなのだと。
「官兵衛……」
「しかし、今日の事によって、お方様の心にこの先も天下獲りの野望が芽吹くことはございますまい」
「そうね……折角、色々と考えてくれて悪いけど、竹千代を守るためにそんな考えはもたないようにするわ」
その上で官兵衛は此度の落し処について策を献じてくれた。それは直ちに太守様に嘉兵衛殿の無礼を訴える事だった。そのようにすることで、潔白を証明する事ができると。
「ぎゃああああああ!!!!!!」
そして、その時次郎三郎の悲鳴が聞こえたけど……わたしは官兵衛の進言を受け入れて、太守様宛に書を認めるために、紙と硯を用意するのだった。




