第322話 藤吉郎は、主の悩みを解決するために
永禄8年(1565年)4月中旬 近江国観音寺城 木下藤吉郎
太守様の下へ向かったはずの殿が戻って来られた。ただし、その表情は明らかに暗い。だから、半兵衛に敵わなかったのだなと思い、声をお掛けした。腹の中にたまったものを吐き出すだけでも、人はスッキリと前を向けるのだ。
「藤吉郎……」
「さあ、遠慮はいりませぬぞ。何があったのか、何を言われたのか……どうか、思う存分お話下され!」
しかし、御所様を守りたいのならば、出奔しては……か。あんにゃろぉ、痛い所を的確についてくるなぁ。同じことは儂も思っていたけど、口にするのは流石に躊躇ったというのに……。
「なあ、俺はどうしたらよい?」
「え……マジで、出奔を考えられているのですか!?」
「流石にそれはない。御所様も大事だが、それ以上におとわや子ら、そなたら家臣たちの方が俺にとっては大切だ。しかし……」
御所様よりも大事とそう仰せられて、儂も胸が熱くなったが、その上で「御所様を助けた上で、今川家が天下を獲る……良き策はないだろうか?」と訊ねられて首を左右に振る。
「やはりないか」
「はい。天に二日無しと申します。悔しいですが、半兵衛の申す通り……天下人は、御所様か太守様のいずれかおひとりかと」
「そうか……ならば、諦めるしかないか」
殿はこれで話が終わりとばかりに席を立たれて、ご自身の部屋へと立ち去られた。ただ、その後ろ姿が寂し気で、何かできる事がないかと儂はそれからも時間を忘れて思案した。
すると、どれだけ時間が経ったのかはわからないが、儂の目の前におとわ様がお立ちになられていた。
「あ、あの……なにか?」
「嘉兵衛の様子がおかしいのよ。夕餉の時間になったから呼びに行ったのだけど、部屋を真っ暗にして座ったまま動かないし。だから、何があったのかなと……」
夕餉の時間と聞いて外に目をやると、確かに外は真っ暗になっていた。しかし、それよりも今はおとわ様の質問に答えなければならない。ゆえに、昼間お城で何があったのか、殿は何を悩まれているのかをお話しする事にした。
しかし、全てを聞いた後、おとわ様から返ってきた答えは、「馬鹿ねぇ」の一言だった。
「いやいや、馬鹿とは……」
「あら?馬鹿が嫌なら間抜けとでも言いましょうか?わたしからしたら、よくもまあそんな簡単な話で悩むなんてと思うんだけど?」
「簡単な事ですと?」
「だって、そうじゃない。要するに嘉兵衛は、小谷城に行きたくないっていう話なんでしょ?」
まあ、合っていないわけではないが、途中の話を聞き逃したのか、それとも理解できなかったのか。流石にこれは端折り過ぎだと思う。だから、苦笑いを浮かべつつため息が零れそうになるが……
「待てよ?」
その時、脳裏に一筋の道が見えてきた。そもそも、今川軍が小谷に向かう必要が無くなれば、半兵衛の計画は白紙になるのだ。そのために、儂ができる事は……危機を浅井に知らせていくさの前に白旗を挙げさせる事だ。
「おとわ様、ありがとうございます。良き策が思い浮かびました」
「そう……それはよかったわ。それなら、嘉兵衛に伝えてもいいかしら?」
「いや、それはお待ち下され。敵を欺くにはまず味方からと申しますし、殿には内緒で……」
このままずっと悩ませるのは気の毒に思うが、これからやろうとする事が公になった時に迷惑をかけないためにも、ここは教えない方が良いだろう。おとわ様には口止めをお願いした。
「でも、このままずっとあのように辛気臭いのはちょっとねぇ……」
「10日もすれば、殿が今悩まれている問題は解決すると思われます。ですので、どうかその間は……」
「仕方ないわね。わかったわよ」
本当に渋々ではあったが、おとわ様は部屋から出て行かれた。そこで儂は急ぎ使いを出して五右衛門を呼び出した。
「ひとつ、仕事を頼みたい」
儂は五右衛門を待っている間に書いた書状を渡して、大至急で浅井玄蕃頭殿に届けるように命じた。あの人ならば、流石に今川軍と戦って勝てない事は理解できるだろうと信じて。




