第321話 嘉兵衛は、半兵衛との論争の末に
永禄8年(1565年)4月中旬 近江国観音寺城 松下嘉兵衛
お戻りになられたと聞いて、俺は義元公の部屋へと向かったのだが……その手前で幼子が笑う声が聞こえてきた。誰だろうと思って、とっさに近くの部屋から様子を窺うと、部屋の中では見知らぬ女性とまだ幼い男の子がお菓子を食べながら上段の間に座っていたのだ。
すると、そこに背後から半兵衛が現れて訊ねてきた。「あれはもしかして、太守様のお子なのですか?」……と。
「そうかもしれぬが……少なくとも俺は知らん」
「左様ですか。貴殿が知らぬとなれば、やはり訳ありの子というわけでしょうね。まあ……御身内が少ない今川家にとってはめでたき事だが、それより……」
何を言いたいのかすぐに分かったため、俺は周囲を見渡して、この部屋とその周辺に誰も居ない事を確認してから、主水の報告が正しかったことを半兵衛に伝えた。但し、浅井に兵を向ける事に関しては、一考を求めたいとして。
「一考ですか。それで、大蔵殿は某に何を求めたいので?」
「先日も言ったが、京を巡る今の状勢を思えば、いつ三好が暴発するとも限らない。そんな中で浅井と全面戦争に踏み込めば……我らは後れを取り、ひいては天下を得る機会を逃してしまうのではないかと思うのだ。そこで……」
俺はここで藤吉郎から提案された通りに、美濃から数千の兵を小谷城に差し向けて、その圧力によって降伏させてはどうかと半兵衛に話した。加えて、朝倉を足止めして浅井を孤立させるために、武田の協力を得るからと。
「この方法ならば、いくさにならずとも浅井も敗北を認めて降伏すると思うのだ」
「それで……降伏させた浅井はどのように?」
「当主の隠居と減封か、遠国への国替えでどうかと……」
「まあ、開戦前に話し合いで降伏させるための条件としては少し厳しいような気がしますが……大蔵殿の策がハマって、朝倉が越前から動けなくなるようならば、浅井も受け入れざるを得ないかもしれませんね」
「ならば……」
「しかしながら、某がここで浅井との決戦を主張しているのは、理由があるのですよ」
今度は攻守が交代して、半兵衛の方からその理由を話し出した。俺が話した内容は重々承知しているとした上で、それでもやはりここは勢多城の松平勢もこの観音寺城の本軍も総動員して、小谷城を攻める必要があると。それが今川家の未来を守るためだとして。
「今川家の……未来を守る?」
「そうですね、仮に大蔵殿が言われる通りにしましょう。その上で京において三好勢が二条御所を襲撃しました。当然ですが、救出に向かいますよね?」
「当たり前だ。今川家は天下の副将軍ゆえ、御所様を見殺しにするわけには……」
「ですが、その場合は三好家と全面戦争に突入する事でしょう。負けはしないと思いますが、その結果として京の町は焼け野原になりましょうな」
京の町は、義輝公と亡き長慶公が和睦した事により、応仁の大乱で荒れ果てた街の復興はかなり進んでいた。だからこそ、半兵衛は言った。これを再び焼いたならば、京の民心は今川家に靡く事はないと。
「特に内裏におわす主上の信頼を失うことになれば、何かと面倒な事になるでは?」
「そうだな……」
この言葉には反論ができない。全くもってその通りだ。
「だから、某は提案したのですよ。京を丸焼きにする業は三好に負わせて……我らは巻き込まれないためにも、全軍で北近江にて浅井を攻めると。そして……」
半兵衛は策の締め括りのように、浅井を潰した後に悪逆非道を為した三好から京を奪い返すために全軍をもって京に攻め上ると言い出した。
「どうです?これならば、我ら今川は正義の軍、解放者として天下に受け入れられましょう」
「だが、御所様はどうなる?我らが見捨てたら……」
「まあ、間違いなくお命は落されるでしょうな。しかし、今川が天下を治めるためには、いずれ御所様の存在は邪魔となりましょう。これは……天が与えてくれた、まさに千載一遇の好機というものではありませんか?……大蔵殿」
今川家に天下を……と願うのであれば、半兵衛の言葉は至極もっともな事だと認めざるを得ない。だけど、俺は同意する事ができなかった。
いや、今川の家臣として、軍師として同意しなければならないとはわかっているけど……義輝公と剣を交わした事、一緒にウサギ狩りで楽しく過ごした事、あとはおとわから守ってくれた恩義を思い出して、助ける事ができないのかと考えてしまった。
しかし、そんな俺の態度を見て、半兵衛は冷たく言い放った。「そんなに御所様を守りたいのであれば、今すぐ出奔して駆けつけたら如何か?」……と。
俺は言い返すこともできず、そのまま逃げるように部屋から飛び出したのだった。




