第311話 嘉兵衛は、間抜けな信長の行方を見守る
永禄8年(1565年)2月下旬 近江国観音寺城 松下嘉兵衛
尾張から信長がやって来て、義元公に祝辞を述べている。うちから借りた金で購入した祝いの品を差し出して、得意気な顔をして。
「使者殿は暫し休めば出立できると申していたのですが、斯様な吉報は一刻も早く伝えなければと思い、こうして馳せ参じた次第にございます」
しかし、そんな信長に残念なお知らせがひとつある。それは、祝いの品を買い揃えている間に、弥八郎からの急使がこの観音寺城に到着して、すでに義元公には後継者となるかもしれない男児の誕生をお知らせしているのだ。
「そうか、それは大義であったな……」
だから、当然だが義元公もやや微妙な表情でそうお答えになられる。半兵衛や小四郎殿ら列席する重臣たちの中には笑いをこらえている者もチラホラ窺える。もっとも、有頂天になっている信長に気づいた様子はないのだから、また間抜けな話だ。
それで……ついに堪りかねた次郎三郎が「もうだめだ」と噴き出した。
「三河殿……なぜ笑う?」
「あ……すみません。笑うなと言われていたのですが、ついおかしくて……」
「笑うなと言われていた?」
この二人の間抜けなやり取りに、ついに半兵衛も小四郎殿も、さらには義元公でさえも笑い出した。その中でひとりポカンとしている信長がかわいそうで、俺が種明かしをした。
「あのな、尾張殿。うちから金を借りるという事は、何かあったと教えるような物だろ?しかも、うちには優秀な忍びが居るんだし……」
「あ……」
それに一刻も早く伝えなければという割には、祝いの品を選ぶのに時間をかけ過ぎだ。次郎吉から聞いた話だと、几帳面な性格が災いして品物の内容や数、格式に拘り、例えば反物一つだけでも決めるのに半日近くかかったらしい。
そりゃあ、古渡から改めて派遣されたうちの使者に後れを取るわけだ。
「こ、これは……も、もうしわけ……」
「まあ、しかしだ。色々と余の事を考えてくれたことは嬉しく思うぞ。それに莫大な借金をしたとも聞くし、手ぶらで返すわけにはいかぬな」
「あ、ありがとうございます」
「……で、何が欲しい?」
ちなみに、信長が津島の代官職を所望している事はすでに筒抜けだ。だから、この状況でもその事を口にできるのかを義元公は試されている。さて、どう答えるか……。
「お、畏れながら……聞くところによれば、遠からず京において騒乱が発生するとか。そこで、どうか某にも活躍の場をお与えいただきたく……」
「それは、尾張から兵を率いて来るというのか?」
「はい。どうか戦陣にお加え願いたく」
ふふふ、流石は信長といったところだな。今の問いかけに津島の代官職を求めたり、ビビって何も求めないようならば、きっと義元公の事だ。場合によったら失望されて、この後冷や飯を食わされていたかもしれない。
だが、それだけにこの答えは御心にかなったようだ。
「よかろう、そなたの願いは叶えてやる。これより国許に一度戻って、2千の兵を率いてこの観音寺城に馳せ参じよ。事が起これば、余と共に上洛するぞ」
「ははっ!」
「それと……兵を出す以上、何かと費えがいるであろう。祝儀の返礼として、そなたに望み通り津島の代官職を与える」
「えっ!?」
この決定には誰もが驚いた。対面に座る何でも知っているような顔をしていた半兵衛ですら予想外だったようで、何か聞いているのかと隣の小四郎殿に訊ねている様子が窺えた。
もちろん、俺も何も聞いていない。全ては義元公がこの場で下されたご判断だ。
「ああ、そうだ。念のために言っておくが、領主ではなくあくまで代官だからな。商人たちに便宜をはかって賂を受け取る事は黙認するが、年貢はちょろまかすなよ?さもなくば、主水のようにしばらく寺に行って反省をして貰わねばならぬからな」
なお、孕石主水が観音寺町奉行に異動になったという話は、逃亡しないように呼び寄せて処罰を下すための方便だった。碌な仕事をしていないくせに、ピンハネした年貢の累積は、4年余りの在任期間でおよそ1千貫(1.2億円)。
本来であれば打ち首ものだが、なぜか意味不明な恩情で首の皮が1枚繋がった。
「とにかく、期待しておるぞ」
「ははっ!」
そういえば、坊主姿の主水は中々似合っていたな。いっそのこと、このまま預けられている相国寺に永久就職して貰いたい所だが……。




