第245話 嘉兵衛は、帰国の途に就く
永禄4年(1561年)11月上旬 信濃国上原城 松下嘉兵衛
さて、そろそろ家に帰らないといけないようだ。おとわからだけでなく、岡崎の義元公からも催促されたし、何よりこれ以上先延ばししたら、雪で道が閉ざされて帰れなくなる。
だから、お土産を持って、ここ諏訪から本日帰国の途に就く。ちなみにお土産には、甲斐の味噌など物理的なお土産もあるが、頭を悩ましているのは人のお土産だ。
「せぇんせ!」
特に「先生」と呼びながら、人目があるのに積極的に甘えてくるこの佐保姫については、どうしようかと……。
「おやおや、昨晩も楽しまれたのですか。秘密の課外授業というやつを……」
「喜兵衛……」
「それにしても、相変わらず手が早いですな。まあ、武田家と松下家の繁栄を思えばめでたい事には違いありませんが……大丈夫なのですか?」
わかっている。俺も同じことを考えていたところだ。佐保姫があまりに懐いてしまって、それでついうっかりと手を出してしまったから、信玄公から責任を取って連れ帰れと言われたけれども……あまりに急すぎる展開のため、約束されていた根回しが追い付いていないのだ。
もちろん、勘助殿は「全力で大蔵殿の命が繋がる様に取り図ります!」……と約束してくれたけど、間に合わなければ間違いなく蜂の巣だ。もう、本当にマジでヤバイ!家に帰るだけだというのに心臓バクバクだ。
「……殿、ご心配なく。いざとなれば、我らが肉の壁となり、殿がご自害を果たすまでの時間は稼がせていただきます」
「ありがとう、慶次郎。しかし、そこは必ずおとわを食い止めて、宥めてくれるとは言ってくれないかね?」
「あはは、それは無理だという事はご自分がよく分かっておられるでしょう。いけませんな、ご自分が信じていないことを我らに求められるのは」
はぁ……やっぱり、帰りたくないな。いっそのことここに残るか、それとも越後に亡命しようかな。いや、どこにいっても、あのおとわが見逃してくれるはずはないか。たとえ地の果てに逃げたとしても追ってきそうだ。
「そういえば、喜兵衛殿もまた尾張に来られるのでしたね?」
「そうなのですよ、慶次郎殿。四郎様の傅役を仰せつかりましたからな。まぁ……単身赴任じゃないのは救いですが……あ、御屋形様!」
「うむ……見送りに来た」
「見送りに来たって……どうしたのですか、その目の周りの青痣は……?」
「三条に……やられた」
「悪いことをしたら、お仕置きを受けるのは仕方ないと思いませんか?喜兵衛」
「ぎょ、御意にございます!」
「ならば、わかっているわよね?薫を泣かしてはいけません。お菊とかいう京女とはさっさと別れるのですよ」
「な、なぜ……それを!まさか大蔵殿が……」
はぁ……ここはやはり、土下座だな。ジャンピング土下座でもして、額を地べたに擦り付けて平身低頭で謝れば、許してくれないかな?いや、それじゃ足りないか。そうだ、この際頭を丸めて謝れば……。
「大蔵殿……大蔵殿!」
「はっ!あ……これは三条の方様。しかし、なぜこちらに?」
いけない、いけない。どうやら、思考の海に深く潜り込み過ぎていたようだ。まさか、その間に三条の方様という……おとわ級の危険人物に捉えられてしまうとは、全くもって不覚だ。
「ねえ、大蔵」
「は、はい!」
「佐保の様子が何だかおかしいんだけど……まさか、原因はあなただったりする?」
「え、えぇと」
「別に責めているのではありませんよ。あんなお花畑になるほど幸せにしてくれて、ありがとうと言っているのです」
「は、はぁ……それはどうも」
ああ、よかった。前に初めての課外授業で、温泉につかりながら此間の続きをやったことが信玄公にバレて滅茶苦茶叱られたから、また叱られるのではないかと覚悟していたんだけど、それはどうやら杞憂だったようだ。
「しかし、本当に大丈夫なのですよね?あなたの正室はかなり厳しい方だと喜兵衛から聞いていますから、その……いじめられたりは……」
「それはたぶん大丈夫だと思います。ヤバいのは某の方で……佐保姫には手を出さないかと」
綾の時もそうだったし、熱田で女遊びをした時もそうだった。おとわはいつも俺にお仕置きをするけれども、相手の女を痛めつけたりはしない。
「殿……そろそろ」
「わかった、藤吉郎。今行くから。では、お方様……」
「頼んだわよ。佐保を幸せにしてね」
まあ、幸せにするためには、まずおとわのお仕置きを乗り切らなければならないが……それを口にするわけにはいかずに俺は出立する。はぁ、ともう一度ため息を吐いて。




