第244話 左保姫は、心の蓋を開く
永禄4年(1561年)10月下旬 信濃国深志城 佐保
返り討ちに遭って、危うく●●されるところを父上に救われたわたしであったが、大蔵少輔から事情を聴いた父上に叱られたのはわたしであった。
「このたわけ!おまえ、自分が何をやったのかわかっているのかぁ!!」
「わ、わたしは、彦六郎様の仇を討とうとしただけです!妻が夫の仇を討とうとして何が悪いのですか!!」
しかし、父上の怒りは収まらない。大蔵少輔は今川義元公の名代として、此度のいくさに援軍として駆けつけた将。それを殺そうとするのは、いわば義元公を殺そうとした事と同じだとわたしに言った。そして、事の重大さを理解しろと。
「し、しかし……この男はわたしの夫の仇で……」
「そもそも、こやつは仇でも何でもないわ!」
「え……?」
父上はため息を一つ吐かれた後、言い辛そうにしながら話された。彦六郎様を殺したのは大蔵少輔ではなく自分なのだと。
「え……うそ。な、なんで……冗談ですよね?」
「……彦六郎は、八幡原で敵前逃亡を図り、婿であることに胡座をかいて言い訳したから、儂の命で殺したのだ。生かしておけば、武田の禍になると判断してな」
彦六郎様が武田家の禍になる?あのお優しい方がそんな、ばかな……。
「そなたにはよき夫だったかもしれぬが、武田家のためになると思ったからこそ、そなたを嫁がせたのだ。それは、我が家に生まれたそなたならばわかるであろう?」
「はい……」
だから、武田の禍になると判断された彦六郎様は処分された。理解はできる。できるけど……心は受け入れることができない。自然と涙が止まらなくなる。
「もし、そなたがどうしても仇を討ちたいと申すのであれば、儂は甘んじてそなたの刃を受けることにしよう」
父上は大蔵少輔から脇差を受け取り、わたしに返してくれた。納得ができないのであれば、それで刺せと。できるわけがない。父上をこの手にかけるなんて……わたしには。
「刺さぬのか」
「はい……」
「ならば、彦六郎の事は金輪際忘れよ。二度と口にすることは許さぬ。よいな?」
「はい……」
たぶん、忘れることはできない。だけど、わたしは武田の女。父上の命令は絶対で、彦六郎様の事は心の中にだけ留めることにした。涙も……自然と止まった。
しかし、そんなわたしたちの会話を聞いて、大蔵少輔は父上に「流石にそれは酷いのでは?」と言い出した。なんだ、この人はと思っていると……無理に悲しい気持ちに蓋をすることはないとわたしの頭を優しくなでてくれた。
「大蔵……これは我が家の問題だ。おまえが口出しすることは……」
「では、此度の縁談について、お断りします」
「なに?」
「だって、心に蓋をされたら、某がその中に入ることはできないではありませぬか。それではお互いに不幸になると思うのですよ。違いますか?」
「うむぅ……」
良く分からない所はあるけれども、大蔵少輔が口にした「縁談」というのは、わたしとの縁談ではないかと察した。姉上は北条家に嫁いでいるし、妹の真理はまだ幼いから年齢が釣り合わない。そういう性癖を持った変態なら話は別だけど……現実的に考えたらたぶんわたしだ。
「しかし、大蔵よ。娘は今、夫を亡くしたばかりだから混乱しているだけでな。時間が経てば、心の蓋は開かれると思うのだが……」
「でしたら、頭ごなしに穴山殿の事を忘れるように言わないでいただきたい。たとえ側室であっても、某は父親の言いなりになる人形娘を受け入れるつもりはありませんから!」
うわあ……この人、凄いわ。父上にここまで言えるなんて、彦六郎様なら絶対に無理だったわ。でも、大丈夫かしら。ここで殺されるんじゃ……。
「わ、わかった。おまえの言うとおりにする。だから、娘を拒むことはしないでくれ。儂だって……佐保の幸せを願っているのだから」
ダメだ。涙がまた出て来た。父上が……まさか、わたしの幸せを願っているとか、そのためにこんな言いたい放題言われた相手に頭を下げられて頼みごとをされるとは……。
そして、そんな父上を横目に大蔵少輔は、もう一度わたしの頭を優しくなでながら言った。心の準備ができたら、来てくださいねと。
「はい」
そんな大蔵少輔様に敵わないと白旗を上げたわたしは、自然とそう答えたのだった。




