第229話 嘉兵衛は、川中島の戦いに臨む(6)
永禄4年(1561年)9月中旬 信濃国川中島 松下嘉兵衛
まだ陽は上っていない。そんな真っ暗な中を我らは月明りを頼りに出陣した。飯富殿率いる別動隊は妻女山の方角へ向かったが、一方で俺たちが居る本隊は八幡原へこれから向かう。上杉軍を迎え撃つために。
「それにしても、本当に霧が出るとは……」
そして、千曲川を渡り、各々の部隊が所定の位置に散っていき、もうじき陽が明けるという所で誰かの声が聞こえた。ただ、霧のせいで声の主が誰なのかはわからない。何しろ、本当に霧が濃くて少し離れたら見えないのだ。
「いて!」
「あ……ごめん」
だから、今のように隣にいた者の足を踏む事だってあるわけだ。今の声からすると、藤吉郎だが……それゆえに、藤吉郎は訊ねてきた。こんなに見えなかったら、果たして他の陣は準備が間に合うのかと。
「そうだな……ちょっと、微妙かもしれないな」
まあ、霧がここまで濃いとは想定外だった。しかも、信玄公が出発を目前にして厠に籠ったことも地味に時間をロスした原因でもある。一人だけ松茸を焼いて美味しそうに食べていたが、どうやら食べ過ぎてしまったようで。
「とにかく、やれることをやるしかあるまい。大蔵殿、我ら織田の鉄砲隊の準備は万全だ」
「そうですか。慶次郎、こちらはどうだ?」
「いつでもいけますよ」
信長と慶次郎の顔はやはり見えないが、頼もしい返事が聞えてきた。ならば、よろしいと俺も気を引き締める。やがて、周囲は徐々に明るくなり、霧も時間と共に晴れていく。最も近い位置には、飯富殿の弟御の陣があるが、見える限り準備はできているようだ。
すると、地面が少しずつ揺れ始める。地鳴りのような音も聞こえて、次第に大きくなってくる。
「来るぞ!」
まだ放ちはしないが、土嚢の壁を隠れ蓑にして、俺と信長の鉄砲隊は三段撃ちができるように準備を進めた。なお、この土嚢の壁はこの辺りに住む農民たちに金を払って、ひと月をかけてこっそり築いたものだ。高さ1メートルで長さは20メートルの壁が2つ……。
「よし、今だ!放てっ!!」
上杉の騎馬隊はついに目の前に姿を現した。俺は大きな声で号令を下した。
ババババーン!ババババーン!ババババーン!ババババーン!
我が陣から一斉に放たれた鉛玉は、時を置かずして上杉の騎馬武者を数多撃ち抜いた。しかし、撃ち漏らした敵はまだ多く、突進は止まらない。
「焦るな、二射目放てっ!!」
ババババーン!ババババーン!ババババーン!ババババーン!
「よし、三射目放てっ!」
ババババーン!ババババーン!ババババーン!ババババーン!
この調子で三段撃ちを継続した。土嚢の向こうには物言わぬ骸の海が広がっていて、その先で上杉軍はやがて足を止めた。
「殿!敵が我らを避けるように他所へ……」
「そうか。では、次に行くか」
そして、敵も馬鹿ではない。ここが抜けぬと分かれば、別の場所を攻めるのは無理からぬ話だ。ゆえに、ここに居ても獲物は得られないため、我らも狩場を移動する。次は……典厩殿の陣に近い場所にある陣地へ向かう事にした。
「それにしても、詳しく訊いてはいなかったが、同じ様な陣地はいくつあるのだ?」
「全部で5つほど作りました。鉄砲が今の10倍あれば、こうして動かずとも敵を殲滅することは可能なのでしょうが、ない物ねだりをしても仕方ありませんからね」
「10倍の鉄砲……殲滅……」
「どうかされましたか?」
「い、いや、何でもない。唯々すごいなと思っただけだ」
まあ、そうはいうけれども、その凄い事をあなたはやるんだけどねと呆れる信長に言ってやりたいが、無駄話をする余裕はなさそうだ。敵はこちらに来なくなった反面、典厩殿の陣に押し寄せている。
しかも、状況はあまり芳しくなさそうだ。隣に布陣していたはずの穴山勢は……すでに敗れたのか、そこにはいなかった。
「尾張殿はここからあの部隊に銃撃を加えて下され!」
「大蔵殿!しかし、ここには土嚢の陣地が……」
「一撃だけでいいのです。撃ち終わったら、織田勢だけで予定通りに陣地へ移動してください!」
時間が惜しい。俺はそれだけを信長に言い残して、松下勢百名を率いて典厩殿の陣に向かう。仮に陣の立て直しができずとも、せめて典厩殿だけでも救出しようと心に決めて。




