第228話 国清は、政虎と共に炊飯の煙を見る
永禄4年(1561年)9月中旬 信濃国妻女山 村上国清
武蔵の上杉蔵人様が北条・今川連合軍に降伏した。それによって、宇佐美様が考案された啄木鳥戦法の実行が不可能になり、管領様のおわす本陣は連日揉めに揉めている。
「かくなる上は、速やかに越後へ引き返すべきだと心得ますが……」
「待て、我らは武田領に深く攻め込み過ぎている。撤退と申しても、武田が逃がしてくれるとは思えぬぞ!」
「武田領?何を言われている!ここは、我ら村上の土地ぞ!」
「村上殿……今はそのような事を申している場合では……」
ちなみに、俺は管領様のお側に仕える近侍の一人なので、この場においては口を出すわけにはいかないが……今の父上の発言は確かにないなと思う。武田に領地を奪われて悔しいし、認めたくはないのだろうが、もう少し現実を見てもらわないと。
「しかし、話を戻すが……柿崎殿の申される通り、越後へ撤退を始めたら、武田は我らに攻めかかってくるのは必定ですな。それは、我らが啄木鳥戦法にてやろうとしていた事を逆にされるわけであり……」
「では、直江殿はこのままここに留まれと申されるのか?」
「そうは申しておらぬよ。だが、今はまだしばらくはもつだろうが、兵糧の心配はあるわけで……」
「こうなると、善光寺に兵を残さなかったのは失敗でしたか……」
「今更言っても仕方がないが、鮎川殿の申される通りかもしれぬな。もっとも、今更ではあるが……」
なお、重臣方が議論を交わしている間、管領様は腕を組まれて目を瞑られたままで何も仰せになられない。
「管領様は……如何にお考えか?」
そして、そのような管領様に本庄様が決断を促すように言葉をかけられた。しかし、どうしたことか反応はない。お言葉を発するどころか、身動き一つさえも……。
「管領様?」
「もしや、居眠りにござるか?」
今の言葉には誰もが悪意を感じて、発言者である北条様を嗜めるように睨みつける者もいたが、それでも管領様は何も仰せになられなかった。そのため、もしかしたら本当に眠っておられるのでは……と、俺も思ってしまった。
「管領様!」
「……うるさい、聞こえている」
だけど、直江様が改めてお声をお掛けになられると、管領様はそうお答えになられて、目を開かれた。その上でいきなり立ち上がられると……ただ一人、この本陣の陣幕から出ていかれてしまった。
「管領様!?」
「何をしているか!おまえらは早く追え!」
「はっ!」
そうだ。ここはぼうっとしている場合ではなかった。周りの近侍たちと共に、俺は管領様の後を追う。
すると、管領様は本陣からそれ程離れていない場所で立ち止まられていた。ただ……我らが追い付いたのを見て、腕をまっすぐ伸ばされて「あれを見よ」と言われた。その先には海津城があって、何本もの煙が立ち上がっていたが……。
「ああ、なるほど。確かに魚を焼いたような香ばしい匂いが漂ってきておりますなぁ……」
「あほう。そういう意味で言ったのではないわ!それに匂ってくるのはキノコの香りであって、魚ではないと思うぞ」
魚でもキノコでも、俺にはどちらの匂いも感じないけれども、それはさておき管領様は言われた。炊飯の煙がいつもより多いと。
「それは……大飯喰らいが敵陣地にやってきたと?」
「いい加減にしろよな、荒川。そんなわけがあるか!」
まあ、そりゃあそうだな。荒川殿は面白い男だが、流石にここは空気を読むべきだろう。
「それで、管領様。炊飯の煙が多いという事は……もしや、敵は出陣の用意をしていると、そう仰せられたいので?」
「そうよ、源五。我の言いたいのはそのことよ。そして、明朝はおそらく霧が出る」
「霧ですか?」
いやあ、本当に出るのだろうかとつい疑ってしまったが、管領様は構わずに説明を続けられた。霧を利用して、武田はこの妻女山に夜襲を仕掛けてくるだろうと。
「ですが……夜襲が来ると分かっていれば、恐れる事は何もないのでは?こちらは山の上に陣を敷いておりますし、攻めてきても優勢は崩れないかと」
「だが、それでは武田もすぐに引き上げるであろうし、我らもこのままここで日々を空しくするだけだ。よって、我はこの敵の思惑を利用して、越後に引き揚げようと思う」
策が敗れた以上、あとは如何様に犠牲を押さえて引き上げるかが重要だと管領様は仰せになられた。霧が我らの姿を隠してくれるし、その上この妻女山に武田が兵を送れば、八幡原を突破し易くなるとして、明朝が好機であると。




