第227話 嘉兵衛は、川中島の戦いに臨む(5)
永禄4年(1561年)9月上旬 信濃国海津城 松下嘉兵衛
「そこまでだ!」
本気で尾張に帰ろうかと思っていたところで、今度は信玄公が声を上げた。そして、その迫力に押されたのか、一同が膝をついて頭を下げる中で、唯一立ったままの俺の元へやってきて……左頬をぶん殴ってきた。
「いたぁ……」
ただし、「これはけじめだからな」と信玄公は言う。流石に先程迄の体罰はやり過ぎだからと、これにて両成敗とし、手打ちにしたいと。
「よいな、大蔵」
「わかりました」
ならば、ここは矛を収めた方が得策というものだ。一瞬、例のラブレターを書き写して、東国一円にばら撒こうかと迷ったけれども、今回は見合わせることにした。
「穴山」
「はっ!」
そして、続いて信玄公は穴山に対して、「以後、作戦に関して異議を唱えることは許さぬ」と申し渡された。次に同じことをしたならば、例え婿であっても腹を切らせると。
「は、腹を……ほ、本気なのですか。某は穴山家の当主で……」
「よいな、彦六郎。儂の言葉を軽く思うなよ?」
「……承知いたしました」
その悔しそうな表情を見る限り、本当に納得しているようには見えなかったけれども、誰も信玄公の決定に異を唱えることなどできるはずもなく、これにて騒動は幕引きとなった。合わせて軍議の方も。
「さて、部屋に帰るか……」
だから、俺も信長と共に広間から引き揚げることにしたのだが……ああ、それにしても、左頬がズキズキと痛む。ケジメとは言っていたけど、もう少し手加減してくれよと思わないでもない。
ただ、部屋に帰って水に浸した手ぬぐいで冷やしていると、義信公を始め、馬場殿や高坂殿といった武田の諸将が次々とやって来た。
「あの……なにか?」
「いやあ、感服しました!」
「左様。よくぞ、あの小童をシメて下さいました!」
「は、はぁ……」
小童とは穴山の事を言っていることは理解できたが、先日の軍議で馬鹿にされていた馬場殿以外にもこうして多くの人がここに集まってはスカッとしたような顔をしている様子から、その穴山が相当な人から嫌われていたことを俺は知る。
「流石は、我が師匠!」
だけど……なんで、義信公はそのようにまるで自分の事のように威張っているのだろうか。それに、弟子にした覚えはないんだけど……。
「ふふふ、流石は大蔵殿よな。流石は我が妹婿よ」
あと、信長よ。どさくさに紛れてしれっと市姫を俺に押し付けようとするなよ。誰が妹婿だ!おまえ、おとわが向けた銃口の前で同じことを言えるのか!?その時は一人で死ねよな!
「おとわ様へ。お宅の旦那が我らの女神・市姫様を手籠めにしようと企んでおります。至急お知らせまで」
「おい、又左!おまえまで一体何を書いているのだ。俺への恩を忘れたのか!!」
「忘れてはおりませぬが……市姫様に手を出すのであれば、それは別儀にて……」
「だ・か・ら!手は出さないって!!」
「手は出さないが……股にぶら下がっている三本目の足は出すと?いやあ、無理やりはダメだぞ。そういう事は側室にしてからにしてもらわなければ……」
「尾張殿!話をややこしくしないでくだされ!!」
まさにカオスだ。左頬は傷むし……ああ、何でこんなことになったのだ。最悪な気分だ。
「それにしても、今川の軍師殿は思いの外、手が早いのだな。もっと冷静沈着な男と思っていたが……」
「あ、これは典厩殿」
さっき言い争いをした事もあって、やや気まずいと思ったが、典厩殿の方は気にした様子も見せずに、ここに来た本題を口にした。即ち、このいくさは本当に大丈夫なのかと。
「わかっている。お屋形様も言われていたが、作戦に異議を唱えてはならないことは」
「でしたら……」
「ただな、今回のいくさ……何か妙な胸騒ぎがするのだ」
「胸騒ぎですか?」
「そうだ。そして、こういった胸騒ぎを侮ってはいけないと俺は思っている。それは貴殿も同じではないのか?」
今のところ、俺自身にはそのような胸騒ぎは起きていない。だけど……そう言えばと思いだした。俺の知る史実では、この川中島でこの典厩殿が戦死してしまうことを。




