第226話 嘉兵衛は、川中島の戦いに臨む(4)
永禄4年(1561年)9月中旬 信濃国海津城 松下嘉兵衛
あの密書は、妻女山に籠る上杉政虎の元へ届けてやることにした。
だが、もちろんだが……それは親切心からではないし、死んだ密使に同情したわけでもない。いくさに勝つための策の一つだ。
「恐らくですが……今頃、上杉軍は策が破綻したと知り、戦うか退くかで迷っているでしょう。そこで我らは……」
勘助殿と俺は、諸将を前にして作戦の内容を説明する。まずは、兵を二手に分ける事一方を信玄公が8千の兵を率いて八幡原に布陣し、別動隊は飯富殿を大将に1万2千をもって妻女山に向かうと。
ただし、戦うか退くか迷っているところに、我らが夜襲を仕掛けてくると思わせる策だ。史実では、炊飯の煙が多いことを見て、夜襲を見抜いた政虎が山を下りて八幡原へと進むのだが……これを逆手に取ることにした。
「つまり……夜襲は行わないと?」
「ええ、そうです。飯富殿らの別動隊は、夜襲を行うように見せかけるためにこの城から出陣しますが、妻女山まで行かずに明け方を目途に千曲川のほとりで待機してください」
説明は勘助殿が行い、俺が補助の役割で進めていく。これは武田のいくさなのだから、顔は立てなければならない。
「しかし……上杉勢も千曲川を渡るのでしょう。川のほとりに近づいたら、上杉勢に見破られるのでは?」
「明け方に霧が出る日があり、その日に決戦を行います。よって、待機場所を間違えなければ、気づかれることはないと思います」
俺が地図を広げて指示した場所は、海津城と妻女山の中間点に位置する場所だ。ここなら、 妻女山を下りた上杉軍と鉢合わせすることはないというのが、俺と勘助殿の見解であった。
「なお、陽が昇れば、いずれ霧は晴れるはずです。晴れたらそれを合図にいくさが始まりますので、別動隊はその時を見計らって河を渡ってください。上杉軍を挟み撃ちにします」
「承知した」
別動隊の大将を務める飯富殿には、義信公を信玄公の側において、さらに大将にしないことも含めて事前に了解を得ていた。そのため、特にこの説明は問題なく終わると思われたが……
「お、お待ちを!」
「なんでしょう、穴山殿」
先日以来、何かとごちゃごちゃと御託を並べ続ける穴山殿はどうやら反発心からか納得できなかったようで、「本当に霧が出るのか」とか「朝になったら誠に晴れるのか」などと言い出し始めた。
「これは地元の者たちにも確認した話であり……」
「百姓どもの言葉を信じて、我らを死地に送られると言われるのですか!」
「死地って……」
「霧が出なければ、別動隊は上杉勢から丸見えでしょう!そこを攻められたらどうなされるのか!それに、そもそもの話……妻女山から上杉軍が動かなければどうなる?数で劣る別動隊は、山から下って来た上杉勢から手痛い打撃を与えられるのではないのか!」
なるほど……穴山殿の言われるような事態になれば、そういう事もあり得るのかもしれないな。 よろしい、ただの馬鹿ではないというのは認めてもいいだろう。だが……
「なあ、穴山殿。そんなにいくさが怖いのなら、死ぬのが嫌なら、おうちに帰ったらどうかね?」
「な……!」
今のは信長が放った言葉だが、完全に同意だ。それゆえに、「この無礼者!」と叫ぶ穴山の前に俺が立ち、拳を一発その顔に叩き込んでやった。
「な、なにをする!?父上にも殴られたことないのに……」
「そうかそうか。それは光栄ですな。では……もう一発」
「ふへっ!」
「おや、ご存じないですかな?右の頬をふたれたら、左の頬を差し出しなさいという仏様の有難いお言葉を」
「へぎゃあ!」
そう言いながら、今度は左頬を殴る。おっと……今度は右が空いたな。すると、流石にこの辺りで制止が入った。流石にこれはやり過ぎだというのは、典厩殿だ。
「やり過ぎですか……」
しかし、俺はその典厩殿にはっきりと言ってやった。今は、いくさの話をしているのであって、 その結果によっては多くの命が失われることを。だからこそ、たらればを並べて統率を乱す行いをする者を放置するわけにはいかないと。これも軍配を預かった軍師の務めだと。
「ですが……」
「それでも気に食わないと申されるのであれば、我らはここで手を引かせていただく。アマちゃんといくさをして、それこそ死地に赴きたいとは思えませぬからな」
そして、帰ったら藤吉郎の祝言だなと思った。それも悪くはないとも……。




