第225話 嘉兵衛は、川中島の戦いに臨む(3)
永禄4年(1561年)9月上旬 信濃国海津城 松下嘉兵衛
上杉勢が妻女山に入って早半月余りがたったが、まだ両軍ともに動きはなく、にらみ合いは続いている。
「勘助、上野の動きはどうだ?敵の援軍はいつ頃こちらに姿を現すのだ」
「それが……動きはないと」
「動きがない?」
なお、この場は軍議の場であり、武田の諸将は勢ぞろいしている。その中にはもちろん、義信公の御姿もあったが……会議の前に釘を念入りにさしておいたので、余計な発言は控えられていた。
一方で、反発するように発言したのは御一門衆であり、信玄公の婿でもある穴山殿だ。
「ならば、なぜ善光寺に兵を置いていない。おかしいではないか。上野からの援軍を当てにしているからこそ、上杉は全軍で妻女山に立て籠もっている……そう言ったのはそなたではなかったか!」
「今のところ動きがないだけで、これから動く可能性も……」
「詭弁だな!半月も待って動かないのだから、動かない可能性の方が高いのではないのか!」
「そ、それは……」
そうだな……確かに今の状況ならば、上野からの援軍は来ない可能性の方が高いのかもしれない。
「山本殿、ここは武士らしく己の非を認められて、潔く責任を取られてはどうか?」
だけど、この発言はいただけない。他の重臣方も眉をひそめて、特に馬場殿などははっきりと「いくさをろくに知らぬ小童が偉そうに抜かすな!」と穴山殿に怒鳴り上げていた。
「なんですと!小童……小童とは!無礼であろう!俺はお屋形様の……」
「まあまあ、彦六郎(穴山信君)も落ち着け。民部(馬場信房)も言葉が些か過ぎていましたぞ。お屋形様の御前でもありますし、このあたりで……」
そして、こうして揉めたところで仲裁に入られたのは、典厩殿(武田信繁)であった。『武田の副将』と評判なのは知っていたが、まさに理想的なナンバー2のようだ。信玄公の威を借ろうとした穴山殿も、一方の馬場殿もこれで矛を収めて、再び話し合いの場に広間は戻った。
「それで……大蔵殿はどう思われる?」
「そうですな……」
ただ、感心していたのも束の間、こうしてその典厩殿からキラーパスを受けて、俺は巻き込まないでくれよと思いつつも、自分の意見を述べることにした。結論としては、敵には敵の思惑があるはずで、もうしばらく待ってはどうかと。
「お屋形様。今川殿の名代ともいうべき、大蔵殿もそう仰せですし、ここはもうしばらく様子眺めでよろしいですよね?」
「うむ……良きに計らえ」
「はい。では、皆の衆。そういう事なので、もうしばらくは様子眺めに徹するという事でよろしいですな?よろしければ、これにて解散とさせていただくが……」
典厩殿の言葉に異論は上がらなかった。従って、我らは引き続き様子眺めをしながら、暇を弄ぶことになった。今日は慶次郎と槍の稽古に励むのもいいのかもしれないな。
「大蔵殿、少しよろしいか」
しかし、そんな事を思いながら広間を出たところで、俺は不意に声を掛けられた。振り替えると……そこには山本殿の姿が。
「如何なされましたか?」
「実は、先程申し上げるのを控えていたのだが……これが手に入ってだな」
周囲を見渡しながら、勘助殿が慎重に差し出してきたのは、薄汚れたしわくちゃの紙だった。
しかし、そこには文字が記されていて……その中身を読み終えたとき、これが武蔵・松山城からの密書という結論に至った。
「ちなみに、これはどうやって手に……?」
「上野との国境に近い山道で息絶えていた者の手に握られていたものらしい。おそらく、上杉の陣に向かう途中だったのだろうが……それよりも、中身だ」
密書には、松山城が北条方に攻められているから、援軍を送ってほしいとあり……さらに、与えられた任務を果たせずに申し訳ないと綴られていた。送り主の名は、城主である上杉蔵人と記されてもいた。
「与えられた任務……上杉が動かないのは、その任務の完遂を待っていると?」
「そういう事情ならば、説明がつくのではないか?そして、その任務は……甲斐への侵攻」
山本殿は今、この信濃に武田の総力が結集しているため、武蔵から甲斐に兵を送られたら大変なことになると口にした。しかし、一方で任務を果たせなかったとあることから、危機は去ったとも。
「ですが、これがお手元にあったのなら、なぜ先程はあのような……」
「どこに上杉の間者が潜んでいるか、わかりませぬからな。軽率な若輩者もあの場にはいたわけで……」
なるほど、それは俺も同意だ。




