第222話 嘉兵衛は、川中島の戦いに臨む(2)
永禄4年(1561年)8月中旬 信濃国海津城 松下嘉兵衛
腕に覚えがある者は出て来い……か。
「大蔵殿……どこに行かれるのですか?しかも、そのようにタスキ掛けまでして……」
「いや、今さっき呼ばれたでしょう。腕に覚えがある者はと。だから、ちょっと外へ……」
「ちょっと外へって……な、何を言われているのですか!」
上泉伊勢守殿といえば、新陰流の開祖であり、『剣聖』と称される凄腕の剣豪だ。そのお方が一騎打ちを受け付けてくれるとは……お金を払ってでもお願いしたい。ワクワクぞくぞくするぞ!
「冗談ならやめて下され!笑えないですぞ。今川の軍師が一騎打ちなどとはあり得ないでしょうが!」
「え……ダメ?」
「ダメに決まっているでしょう!負けたらどうするのだ、負けたら!!」
自分の立場を考えろと勘助殿に叱られて、俺は仕方なく上泉殿との一騎打ちを諦める事にした。まあ、確かに俺が負けたら、全軍の士気に関わるか。それに今川家との関係にもひびが入る可能性もあるし……。
「おい!誰も出て来ないのか?武田の侍はどうやら腰抜けぞろいだな!!」
しかし、その間にも上泉殿の挑発は続く。門を固める赤備えの面々は誰も外に出さないようにしているが、やがてその一角が破られて一人の侍が外に出た。この櫓の上からは顔が分からないため、誰が出たまではわからないが。
「某は、松下大蔵少輔が家臣、前田慶次郎。ご高名な上泉伊勢守殿に挑ませていただきたい!」
「はぁあああー!?」
「なるほど……この主にしてあの猪侍ありか……」
勘助殿が呆れたようにそう言われていたのは耳に届いたが、俺の方はもうそれどころではない。まさか、自分の家臣が飛び出してくるとは思っておらず、慌てて梯子を下りて止めに走ろうとした。
「大蔵殿、お待ちを。今更行ったところで間に合いますまい」
「いや、しかし……」
「この櫓の上ならば、せめて様子は窺い知ることができて、次の一手を打つこともできるでしょう。さあ……始まりましたぞ」
勝負はお互い馬から降りて、獲物は刀のみのようだ。二合、三合と刃を交えて慶次郎は崩れない。どちらかといえば、上泉殿の方が押しているように見えるが、それでも中々決着がつかなかった。
「慶次郎もなかなかやるな……」
「感心している場合ではありませんが、大蔵殿の意見に同意しますぞ」
そして、櫓の下を見下ろすと、武田の兵たちもどちらが勝つのかと盛り上がっていた。
「さあ、締め切りますぞ!今のところ、慶次郎が勝つと賭けたら、3倍だぁ!賭ける者はもうおらんかねぇ!一口10文(1,200円)だっ!!」
さらにそれを盛り上げるように賭けの胴元を務めるのは、うちの藤吉郎だ。どいつもこいつもと……思わずため息が零れた。
「あ……殿。殿は御賭けになられないのですか?」
「じゃあ、上泉殿に50口を……」
「あれ、慶次郎に賭けないのですか?」
「小遣いを増やす好機だ。私情を挟むわけにはいかない」
冷たいなぁという藤吉郎ではあったが、その時ついに決着がついた。やはりというか、慶次郎は膝を屈して敗れたのだ。それゆえに冗談はここまでにして、俺は櫓の上から信長を見つけると、「助けてくれ」と大きな声で救援を求めた。
「承知した。織田軍、出撃するぞ!」
実は、この櫓の上から全てが見えていたのだが……信長は一騎打ちの最中に兵を集めて銃を持たせて、いつでも出撃できるように準備を進めていたのだ。
「おお、どうやら上手く行ったようですな」
そして、勘助殿が隣で言葉を吐かれた通り、2百程度の織田軍が一騎打ちの現場に駆け付けた時には上泉殿も上杉軍の列へと走り去っていて、慶次郎は無事に救出された。
「尾張守殿、かたじけない!」
「これは貸しということでよろしいかな?」
「ええ、構いません。とにかく、ありがとうございました!」
正直な気持ちとして、信長に貸しを作る事は何やら空恐ろしいけど、今はそんな事を言う資格がない事は理解している。市姫が来ない事を願いつつ、俺は白旗を上げたのだった。




