第218話 嘉兵衛は、海津城で暇を弄ぶ(2)
永禄4年(1561年)6月中旬 信濃国海津城 松下嘉兵衛
6月もすでに半ばが過ぎているというのに、上杉軍に動きはないらしい。しかも、上野・箕輪城の長野信濃守(業政)が危篤という知らせも入って、武田本陣では今、このまま信濃に留まるよりもいっそのこと上野に攻め込んではという意見さえも出始めていた。
なお、俺の知る史実で、川中島の戦いに先立ち、上野攻めがあったかどうかはわからない。
「大蔵殿はどう思われる?攻めるべきだと思うか」
「そうですなぁ……」
だから、部屋に戻った後で信長にそう問われて……俺は「武田の決定に従いましょう」と答えた。そもそも本来であれば、我らはここにいないのだ。余計な口出しをしなければ、上野を攻めるか攻めないかに関係なく、その先には川中島の合戦があるはずだ。
「なんだ、つまらんのう」
信長は些か不満そうにそう返してきたが、前世の知識というアドバンテージを持つ俺としては……それがベストな選択だ。
「殿……大和の松永様より使いとして、果心殿がお見えになられていますが?」
「果心殿が?」
ただ、そんな話をしている最中に、藤吉郎が果心殿の来訪を知らせてきた。遠い信濃までわざわざご苦労な事だなと思ったが、それだけに会わないわけにはいかない。伝えに来てくれた藤吉郎に、会うからこちらに通してくれと頼む。
「よろしいので?」
「なにがだ?」
「いえ……織田殿がおられるからと思いまして……」
「あ……」
思わず横を振り向いて、そういえば居たなぁと思い、それなら別の部屋に案内するように告げようとした。しかし、信長にとっては暇つぶしに好都合な機会と捉えたのだろう。どうしても同席させてもらいたいと俺に頼み込んできた。
「尾張守殿……」
「もちろん、ここで見聞きした事はこの場限りとして外には漏らさぬ。約を違えたならば、そなたに市をくれてやるから……」
市姫か。前に寧々の所へ遊びに来ていた時に顔を合わせた事があるが、物凄い美少女だったな。
「わかりました。そこまで仰せられるのであれば、同席は認めましょう」
「おお、真か!」
「ただし、妹君はいりませぬ。その時は、別の物を頂きたいと思いますので……」
だけど、側室に迎え入れるという話をおとわに知られたら、市姫の処女を散らす前に俺の命が散る事になるわけで……非常に残念ではあるが、受け取るわけにはいかない。代わりに何を貰うのかは決めていないが、一先ずお断りはしておく。
「ふふふ、まあよい。その条件で構わないから、同席させてもらうぞ」
「承知しました。藤吉郎、果心殿をこちらへ」
「はっ!」
そして、しばらくするとその果心殿が現れた。
「ご無沙汰しておりますな、大蔵殿」
「果心殿も遠路はるばるご苦労様です」
「では、こちらが松永様から預かった文にございます。お改め下さいませ」
初めからそのつもりだったのかはわからない。だけど、松永様とは秘密を共有しているため、このように伝えられたい事を文に記してもらえたのは幸いだった。
何しろ、その冒頭部分には……この4月に三好家の重臣・十河孫六郎(一存)が落馬にて死去したと記されていたのだ。警告したのになぜと思うが、その言葉を口に出さずに済ませることができた。
「大蔵殿、如何なされましたか?」
「実は、三好家の重臣・十河孫六郎が落馬で死去されたと記されていましてな……」
「三好の重臣ですか……」
まあ、今の信長には興味が薄い話のようだな。その表情を見ていると、その事がよく理解できた。ただ、書状の中身を静かに読み進めると……「落馬と記したが、落ちたのは馬の上からではなく女の上からだ」と書かれているのを見て、俺は思わず吹き出した。
「大蔵殿?何がそのようにおかしいので……」
「あ、いや……先程申した十河殿が4月に亡くなったとここに記されているのだが、それは表向きには落馬としているが、本当の死因は腹上死らしくて……」
「なるほど……確かに腹上死とは公にできませぬからな。それで落馬と……」
これは全く予想外の事だ。もちろん、笑い事ではないけれども……松永様が頭を抱えている姿は容易に想像がついた。しかし、女の腹の上から落馬か。そんな死に方は御免だな。




