第216話 上泉伊勢は、信濃の危急を知らせるも
永禄4年(1561年)5月上旬 上野国草津温泉 上泉秀綱
北信濃で武田が割ヶ嶽城を落したという知らせが入り、これを管領様——上杉政虎公にお伝えするために、儂はここ草津温泉を訪れた。本来であれば、我が殿が参上するところであるが、病が重く……その名代としてだ。
「それにしても、管領様も呑気ですな。かような状況下で、温泉で遊ばれるとは……」
「文五郎、そう申すな。管領様にも色々とご事情があるのだ」
そのご事情というのは、政虎公が女だという事だ。それゆえに、これまでも月のモノが来る度にどうしても表に出られなくなるし、その他にも大なり小なり問題は発生している。おしりを触った成田殿が頬を叩かれて、その後何かと冷遇されたのもその一つといえば一つだ。
「どういう事情ですか。小田原城も結局諦められて、噂ではこの後、越後に戻られるとか。味方した我らはどうなるのですか」
まあ……文五郎の不満はわからないでもないが、どれもこれも秘中の秘なので、ここでは言えない。けれども……今回の草津逗留も女性ならではの悩みが原因なのではと儂は思う。例えば、冷え性が酷くて治されるためとか。
「これは、上泉殿……」
そして、管領様の御座所近くまで参上して、政虎公の重臣の一人である直江殿から声をかけられたので挨拶を交わす。しかし、直江殿は越後におられたはずではなかったのか?
「ああ、少し野暮用がございまして……」
「野暮用ですか?」
「野暮用です。それで……御用のおもむきは?」
「火急の用件で罷り越した。管領様にお目通りを願いたいのだが……」
「申し訳ございませんが、管領様は御籠り中にございまして……ご用件は某が代わりに承ります」
「そうですか」
もっとも、これはいつものやり取りの一つであり、儂としては異論を挟むつもりはない。だから、殿に頼まれた通り、北信濃への武田軍の襲来を伝えた。このまま北信濃を完全に抑えられたら、長野家にとっても問題だが、上杉家にとっても同じではないかと。
「な、なにぃ!信玄が北信濃に出てきただとぉ!!」
「これは、管領様……」
あれ?お籠り中ではなかったのかと儂は直江殿にその事を訊ねようと思ったのだが……その前に、管領様の腕の中に小さな赤子が抱かれている事に気が付いて言葉を続けることができなかった。
「あ……しまった」
そして、ご自身の失態に気が付かれたのだろう。管領様は何もなかったかのように赤子を抱かれたまま部屋の中にお戻りになられて、扉を閉ざされた。同時に、天井裏や床下から次々と忍びたちが現れて、儂らに刃を向けた。
「見られたからには、生かして返すわけにはいかぬ」……などと、身の程を弁えぬ発言を重ねて。
「やめよ、やめよ!おまえらが束に勝って勝てる相手ではない!」
「しかし、直江様……」
「儂が言い含めるから、そなたらは退け!この方は、新陰流の上泉伊勢守殿であるぞ!!」
よかった……つまらぬ殺生をせずに、どうやら済んだらしい。忍びたちは儂の名を聞いて、直江殿の言葉に従ってくれた。
「それで……改めて確認させていただきますが、あの赤子は誰との間に儲けられた子で?」
「相手の名は言うわけには参らぬ。しかし……此度の小田原攻めの最中に管領様を守って命を落とした」
「そうですか……」
何となく誰なのかはわかったが、それを口にするのは野暮というもの。
ちなみに、あの赤子は姫様のようだ。直江殿が言うには、表向き男性として振舞われている以上は隠す必要があり、姉君の娘として育てる算段を進めているとの事だった。
「しかし……そうなると、信濃へすぐに出陣する事は難しそうですね……」
直江殿は否定することなく頷かれた。ご出産されたのは半月前の事というので、あとひと月ないしふた月はこの草津に逗留できればと考えているようだ。
「とにかく、引き続き信濃を見張り、何かあったら知らせてもらいたい」
「承知しました」
零れそうになるため息を飲み込んで、これにて用件も済んだため、儂は文五郎と共に退散する。
それにしても困ったものだな。我が殿にどう説明したらよいものか……。子供ができたので、もう少し時間が掛かるとは言えないし、頭が痛かった。




