第211話 飯富兵部は、若殿の未熟さに頭を抱える
永禄4年(1561年)閏3月下旬 信濃国上原城 飯富虎昌
「いてっ!もう少し、優しくせぬか……」
「申し訳ございません!」
今、目の前では長坂源五郎が太郎様の手当てを行っていた。それにしても、手酷くやられたものだなと思う。右目の周りと額、それに鼻の下や口元にも青あざができていて、二人きりだったあの二階で一体何発殴られたのかと……。
だから、源五郎は怒りを滲ませて口にした。「若殿をこのような目に遭わせるなど、松下大蔵は許し難き」と。
「……いうな、源五郎。その名を聞くだけで腸が煮えくり返る」
「こ、これは申し訳ございませぬ!」
「よい……分かればよいのだ」
しかし、太郎様は松下殿に怒りの感情を募らせておいでのようだが、儂や下野殿(曽根昌世)の考えは違う。松下殿は太郎様の命を救われた恩人だ。義元公の名を出してくれなければ……考えただけでもぞっとする。
「それにしても、兵部よ」
「はっ」
「やはり、割ヶ嶽城攻めの先陣はやらねばならんのか?」
「太郎様……」
「その城はそれほど大きな城ではないと聞いたぞ?此度の償いをするのであれば、ここは力を温存して、その後の川中島で取り返した方が良いのではないかと俺は思うのだが……」
はぁ……心の中で吐いたため息を口に出すわけにはいかないけれども、どうしてこのような考えになってしまうのか。前々から薄々気づいていた事だが、やはり傅役としての務め方をしくじったのかな……。
「太郎様。お屋形様から与えられた仕事に大きいも小さいもなく、忠実にその任務をこなすことが重要なのです。しかも、今はご不興を買っておられますし……ここは」
「……わかった。まあ、確かに今は従っておいた方がよいな。臥薪嘗胆とも申すし、今は……な」
はぁ……やはり、育て方を間違っていたようだ。臥薪嘗胆って……全然反省していない!
「ははは、兵部。やっぱり手を焼いておるようだな!」
「こ、これは、典厩様!」
「叔父上!」
ここは太郎様のお部屋ゆえ、例え叔父である典厩様であっても、いきなり立ち入られる事は本来であれば赦される事ではない。しかし、今の「臥薪嘗胆」の話を聞かれたと思うと、あまり強くは言えず、太郎様も席を勧められた。なお、その供には、武藤喜兵衛の姿もあった。
「いかんぞ、太郎。お屋形様は決して甘いお方ではない。そのような態度を取り続ければ……わかるよな?」
「はい……」
「ならば、考えを改めよ。先程兵部も申した通り、お屋形様の命にはたとえ不満があったとしても口を閉ざして従え。武田の未来を背負うつもりがおまえにあるのなら……よいな?」
「はい……」
おお、流石は典厩様だ。太郎様を説得してくださるとは、誠にありがたい!
「それにしても、その顔……手酷くやられたな」
「酷いでしょう?あの松下大蔵という男……某は絶対に許しませぬ!」
いずれ武田を継いだならば、武田の保有する忍びを総動員してでも奴を殺すと息巻く太郎様。しかし、そのお姿に……典厩様の後ろに控えていたはずの武藤が笑った。
「なんだ?何がそんなにおかしい!」
「ははは、これは失礼。しかし、それはやめた方がよろしいでしょうな。何しろ、あちら側には京の公方様、三好様、松永様、さらに追放された無人斎様もついておられます。それに……飛加藤も」
「な、なに!?」
驚く太郎様に武藤は言った。松下殿に手出しをすれば、表で天下を敵に回し、裏でとびっきりの忍びによって命を狙われる羽目になると。
「それほどにあの松下殿は大物なのですか?」
「下野守殿。今張良という名は、何も箔をつけるために自己主張したわけではないということですよ。だから、お屋形様とて内心では相当ムカついていたとしても、報復には出られないのですから」
なるほど……そのお屋形様がムカつかれている経緯は、以前弟の三郎兵衛から聞いてはいたが、そうか。そういう裏事情があるから、報復はできずにいるという事か。
「ですので……如何でしょうか?ここは、その今張良殿を頼りにされてみては?」
「なんだと?」
「あの方は、無類のお人好しですから、若殿様が心の底から縋られたら……時には今日のように鉄拳が飛んでくるかもしれませぬが、良き方向に導いてくれるかと」
もちろん、謀反の相談はダメですが……と、武藤は再び笑うのだった。




