第210話 嘉兵衛は、親子喧嘩を仲裁する
永禄4年(1561年)閏3月下旬 信濃国上原城 松下嘉兵衛
問答無用だ。すでに信玄公の忍びに聞かれているのだから、時間的な猶予もあり得ない。
謀反の話が信玄公に伝われば、武装した兵士たちがやって来かねないわけで、俺は義信公を連れて、信玄公の御前に参上した。
「義信!?なんだ……その酷い顔は!」
「あ……いえ、これは……」
「それに大蔵!おまえ、何の用だ?まさか……おまえがやったのか?義信を……」
だが、その時、タイミングが良く信玄公の前にスッと忍びが天井から降りてきて、何やら耳打ちをした。
そして、全てを聞き終えた信玄公は静かに立ち上がって……義信公の頬をぶん殴った。「この愚か者!」と怒鳴りつけて。
「父上!申し訳ございませんでしたぁ!!」
「謝って済むか!このたわけがぁあ!!……飯富!曽根!」
「「はっ……」」
「貴様ら……これまで、この阿呆に何を教えてきたかぁ!謀反……謀反だとぉ!!」
「誠に申し訳ございません!この上は、我らは腹を切りまする!」
「ですので……どうか、若殿のお命だけは……」
「ならん!貴様らの命だけで償えると思うてかぁ!!……義信っ!そなたが先頭を切って腹を切れぇい!!!!」
出家して頭が丸坊主になったせいか、怒り狂って顔を真っ赤にしている今の信玄公はまさにタコ坊主……ゆでだこだ。それゆえに、そのお顔を見ていると、つい噴き出してしまった。もちろん、笑う場面ではない事は承知しているが……止まらない。
「大蔵……」
「あはははは!ダメだ、このタコ……!!」
「おい……誰がタコだ。いい加減にしろよ?」
あ……やばい。信玄公が刀に手を伸ばそうとしている。俺は笑うのを止めて取り繕う事にした。
「……まあまあ、そうお怒りにならず。ここで怒りに任せて太郎様を処断為されたら、三条のお方様が悲しまれると思いますよ。あ……そうそう、これが某に届いた依頼状にて」
「む……」
俺が受け取った文には、失敗したら三河で一向一揆を起こすと書かれていた。しかし、ここで信玄公が義信公を成敗したら、一向一揆は矛先が変わり、甲斐・信濃で起こるだろう。お方様の性格を思えば……。
「今、長尾とのいくさを控えた状態で、一揆は流石にまずいのでは?」
「そ、そうだな……」
「書状にも記されていますが、お方様がお望みになられているのは、お二人の仲直りです。もちろん、太郎様が仕出かそうとしたことは許される事ではございませぬが……ここは、今川の顔を立てると思し召されて、どうかなかったことにしては頂けませぬか?」
このとおりと俺は頭を下げた。もし、これでも納得いただけなければ、今のところ打つ手は見つかっていないが……信玄公はため息交じりで「よかろう」とお答えになられた。
「ただし、義元の顔に免じて許すのは此度だけだ。次に謀反を企めば……例え三条が我が領地で一揆を起こすと脅しても、退かぬからな。太郎……左様心得ておけ!!」
「ははっ!」
さて、これで武田家の親子喧嘩は幕引きだ。飛加藤の一件で生じた借りも返したから、あとは桶狭間の借りを川中島で返すだけだ。
「申し上げます!只今、典厩(武田信繁)様、ご着当の由にて!」
「相分かった」
そして、武田の副将と称される典厩様の軍勢が到着した事で、川中島に向かう甲斐・南信濃の兵は揃った。そこでいよいよ出陣となるわけだが……
「義信!」
「はっ」
「川中島に向かう前に、割ヶ嶽城を攻めることは知っておろう。その先陣だが……そなたに任せたい」
「某が……にございますか?」
「そうだ」
それが信玄公なりの救済処置なのか。傅役の飯富殿、曽根殿にも補佐をするようにと命が下る。二人はその事が理解できているから異議を唱えることなく承知していたが、問題はこのバカ殿——義信公だ。謝ったばかりだというのに、早速反抗の態度を見せやがった。
「父上!それは嫡男たる某がやるべき仕事ではございませぬ!」
「おまえ……この父の気持ちが本当にわからぬのか?」
信玄公が呆れるように吐き捨てられたが、どうやら馬鹿に付ける薬はないようだ。




