第208話 嘉兵衛は、源五郎の出世を喜ぶも
永禄4年(1561年)閏3月下旬 信濃国上原城 松下嘉兵衛
もう朝飯の時間はとっくに過ぎているというのに、藤吉郎は姿を見せなかった。
「小平太、何か聞いているか?」
「いえ、昨夜最後に会った時は特に用があるとは……」
「そうか」
……となれば、やはりおかしいな。果たしてどこに行ったのやら。寝所にも姿がないようだし、また変な事を仕出かしていなければいいのだが……。
「まあ、殿。藤吉郎殿も子供ではあるまいし、それほど心配なさる必要はないのでは?」
「そうはいうがな、慶次郎。あやつには覗き癖があるからな。この敵地で侍女の着替えや入浴を覗きでもしたら、流石にヤバい事になるとは思わぬか?」
例えば、三条の方様の着替えなどを覗いたならば……うん、間違いなく磔だな。「ぽっこりおなかを見られた以上は、生かして返すわけにはいかぬ」とか何とか言われて。
あ……これは、オフレコだな。俺がこんな事を心の中でも思っていたと知られたら、何をされるか分かったものではない。
「では、朝餉を食べ終えたら皆で探しますか?」
「そうだな。そうするといたすか……」
だが、そう結論を出してから味噌汁を啜っていると、甲府に行っていた源五郎が顔を出した。
「おお、源五郎か。それで、祝言は如何であったか?」
「実は三条の方様の肝いりで、某は武藤家の名跡を継ぐことになりました」
「武藤家?」
何だそれはと思っていると、武藤家とは信玄公の御母君の一族の家だそうで、今回の沙汰によって源五郎は武田家の親類衆に列する事になったという話だった。つまり、大出世だ。
「名も喜兵衛と改めまして、足軽大将にも任じられました」
「よかったなぁ!おめでとう!!」
「ありがとうございます!」
ただ、これらの沙汰は全て三条の方様の肝いりだと源五郎改め喜兵衛は言っていた。
……ということはだ。これから喜兵衛は、三条の方様の手先となって働くことになるはず。これは用心しなければならない。
「それで……早速なのですが……」
出た!やはりそうじゃないかと思っていたけど、喜兵衛は三条の方様からと言って俺に書状を差し出してきた。中身を改めると……非常に厄介な事に、義信公と信玄公の仲を取り持ってもらいたいと記されていた。この喜兵衛と協力して……以前の借りを返して欲しいと。
「ちなみに、この書状の中身は知っているよな?」
「はい。お方様からくれぐれもと某も頼まれましたゆえ……」
「それでどう思う?あの二人は仲直りできると思うか?」
喜兵衛は苦笑いを浮かべながら、首を左右に振った。すでに隠居を迫るという刃を抜いているのだ。親子の情が残っていたとしても、信玄公が自らの立場を守ろうと思うのならば、義信公は排除しなければならないはずだ。
「だが、それを言ったところで、三条の方様は納得されないよな……」
「ええ。失敗したら、三河で一向一揆を起こして、今川領で暴れてもらうと……そのようにも仰せでございました」
「それは……」
三河は一向宗が盛んな国だ。もし、そこで一向一揆が起これば、俺の知る史実の家康が苦労したように非常に厄介な事になる。しかも、今の三河は義元公がおられる今川の一大拠点だ。一揆はやはり避けなければならない。
「ちなみに、某にも解決するまで帰ってくるなと……」
「ならば、いっそのことうちの家臣になるか?」
「御冗談を。それこそ裏切りだとみなされて、一向一揆の計が発動されますぞ?」
それはまた厳しいなぁと思っているとその時だった。この部屋に義信公の使いとして、曽根下野守殿が姿を現したのは。そして、一通の書状を差し出してきたので中身を改めた。
「なるほど……藤吉郎は、若殿様の元にいるというわけですか」
「如何にも」
書状には、藤吉郎が義信公の部屋に忍び込んだので預かっていると記されていた。返してほしければ、引き取りに来いとも。
ただ、馬鹿正直に額面通りに受け取るのは危険だ。




