第203話 嘉兵衛は、諏訪で未来の勝頼と対面する
永禄4年(1561年)閏3月上旬 信濃国諏訪 松下嘉兵衛
那古屋城を発った我ら一行は、三河から山間の道を通って信濃に入り、今は大きな湖—— 諏訪湖を見下ろす場所にやってきていた。
「大蔵殿……あれは?」
そして、信長が指をさしたその先に、武田菱の旗を掲げた武者の一行が近づいて来た。おそらく出迎えの者たちだと思って呼びかけると、先頭の侍がこの先の上原城まで案内すると言ってきた。
もちろん、断る理由はない。俺たちはその後に付き従い、上原城に入城したのだった。
「ようこそお越しくださいました。武田信玄が四男、四郎にございます」
四郎——その名を聞いて、この子が武田勝頼なんだなと思ったが、まだ元服前のようで勝頼という諱は名乗っていないようだ。
ただ、それはさておき、我らは客間に案内されて、この四郎君から今後の予定を聞くことになった。まずは、我らはこの諏訪に留まり、甲斐へは源五郎のみ向かうようにと。
「それは……」
「父からの書状によれば、もうすぐこちらに来るので、わざわざ甲斐に来る必要はないと……」
「それなら、源五郎もここで待てばよいのでは?」
「源五郎には別の用事があるのです」
「別の?」
何だと思っていると、四郎君は隠す様子も見せずにあっさりと答えた。即ち、三条の方様の侍女・薫殿との祝言が待っているからだと。
「なるほど……それなら、仕方ありませんね」
本音を言えば、折角なので参列したいという気持ちもあったが、武田家の方々が中心となる婚礼に呼ばれてもいないのに参加するのは無粋な話だ。それに婚礼が終わったら、再び信玄公と共にこちらに来るというし、俺は素直に送り出すことにした。
……浮気の証拠を添えて。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ!なんで、大蔵殿がその手紙を!?」
「何でって、松永様から何かの時に使ってくれと送られてきたんだよ。それにしても……前に京で抱いた女にまだ未練が残っていたとはな……」
手紙は、お菊というあの時のうさぎちゃん宛で、「また会いたい」とか、「古渡に来ないか」とか、そんな言葉が綴られていた。ただ、源五郎にとっては残酷な話だが、当のお菊はすでに嫁に行っていて、送り返されていた返事は全て松永様の手による作文だったとか。
まあ、武士の情けでその秘密は明かしたりしないが……。
「……それで、一体何がお望みで?」
「そうだな。この件をバラされたくなければ、嫁さんを大事にしろ」
「へ?」
「証人は四郎殿だ。四郎殿、もしこの源五郎が嫁さんを大切にしないようなら、俺に教えてくれるかな?その時こそ、この浮気の証拠を送りますから」
「わかりました。謹んで、そのお役目を引き受けましょう」
四郎君はニコニコしながら、俺にそう返してくれた。どうやら、今のところはいい子に育っているらしい。将来はわからないけど……。
「では、今日のところは……」
「待て」
「織田殿?」
しかし、どうしたというのだろうか。これにてあとは旅の疲れを癒す時間だというのに、信長が退出しようとする四郎君を呼び止めた。そして、何かと思ったら縁組の打診だ。
「うちには、とびっきり美人の妹がいるんだが……どうだ。嫁に貰ってくれないか?」
「え……?」
俺も思わず「え?」と言葉を漏らしそうになったが、四郎君に婚約者とかがいないのなら、考えてもらえないだろうかと言い出した。
「それは……某の一存では……」
「わかっている。俺だってそうだ。今川の太守様にお伺いを立てる必要があるからな。だが、もしその気があるのなら、お父君に相談してもらえないか?このいくさが終わるまでで構わないから」
「は、はぁ……」
まあ、四郎君が戸惑うのも無理はないだろう。信長とは初対面なのだ。一体全体どうしてこんな話が出てくるのかともしかしたら思っているのかもしれない。
ちなみに、信長の後ろに控えていた又左が半べそをかいていたので、みんなが今知りたいことを代わりに聞いてみることにした。その妹とはもしかして市姫なのかと。
「いや、姉のお犬の方だ」
その言葉に又左のみならず、織田家の面々からホッと溜息が零れたのが聞こえた。




