第93話 猫山リゾートホテル
山ミッション最初の拠点、猫山リゾートホテルへ。
美しいホテルの中には、欲望区らしい罠が仕掛けられていました。
猫山リゾートホテルの中は、山の中にあるとは思えないほど豪華だった。
広いロビー。
大きな窓。
磨かれた床。
川と山を見下ろすように作られたラウンジ。
受付には、猫耳のスタッフたちが並んでいた。
「ようこそ、猫山リゾートホテルへ」
笑顔で迎えられたが、誠司は少し警戒していた。
ここにも、欲望区のにおいがする。
チェックインの手続きが始まると、部屋割りはすぐに決まった。
夫婦やカップルは同室。
煌成とかすみ。
翔とレイナ。
大地と早希。
誠司と久美子は、それぞれ一人部屋になった。
「シングルのお客様はこちらですね」
猫耳のスタッフが、にこやかに部屋の鍵を渡してくる。
誠司は鍵を受け取った。
久美子も、少し緊張した顔で自分の鍵を受け取っていた。
その後、誠司たちはホテル内のホールへ案内された。
そこでは、これからの山ミッションについてのオリエンテーションが行われた。
明日からは、さらに奥の山道へ進むこと。
途中には、猫耳族の集落や妖精の住む花畑があること。
洞窟、崖、湖、廃城などの試練があること。
説明は淡々と進んだ。
そして最後に、案内役の猫耳スタッフが笑顔で言った。
「本日の夕食後、皆様には猫ラウンジを二時間ご利用いただきます」
大地がすぐに反応した。
「猫ラウンジ?」
「はい。男性用ラウンジと女性用ラウンジに分かれております」
「それ、利用しないと駄目なのか?」
「山ミッション参加者様は、必須となっております」
大地は小さく息を吐いた。
「別に利用したくないんだけどな」
レイナも面倒そうに言った。
「ホント、これも罠よね」
その横で、煌成は静かに口を開いた。
「経験者から言うと、ここからが落とし穴だ」
誠司たちは煌成を見た。
「煌成さん、このミッションをしたことがあるんですか?」
「ああ。一度だけある」
煌成は案内板を見ながら続けた。
「夕食後の猫ラウンジでは、酒を強くすすめられる。恋愛商法にも気をつけろ。変なものも買うな」
そこで、煌成は少し間を置いた。
「それから、部屋に置いてあるものにも注意した方がいい」
「部屋にも?」
かすみが不安そうに聞いた。
煌成はうなずいた。
「冷蔵庫には、よく分からない飲み物や食べ物が置いてある場合がある。酒、ハーブティー、コーヒー、サプリ、ゼリー、栄養補助食品。アロマや音楽、映像、ゲーム、カラオケまで用意されていることもあるらしい」
煌成は静かに続けた。
「無料で美味しいからと夜に飲み続けていると、眠れなくなることがある。寝不足になれば、翌朝まともに出発できない。そうなれば、もう一泊するしかなくなる」
レイナが呆れたように息を吐いた。
「休ませるホテルじゃなくて、泊まらせ続けるホテルじゃない」
「酒を飲んで二日酔いになり、翌日出発できなかった者もいる。夫婦やカップル向けの仕掛けに乗って、翌朝動けなくなった者もいたらしい」
早希が短く言った。
「つまり、今日は早く寝る。余計なものには触らない」
「それがいい」
煌成はうなずいた。
「明日からが本番だ。ここで消耗する必要はない」
夕食は豪華だった。
山の食材を使った料理が並び、見た目も味もよく作られていた。
けれど、誠司はどこか落ち着かなかった。
食事が終わると、猫耳のスタッフがやってきた。
「それでは、猫ラウンジへご案内いたします」
男性陣と女性陣は、そこで分けられた。
「酒は飲むな。買うな。誘いに乗るな」
煌成が最後にもう一度言った。
男性用ラウンジに入ると、空気が変わった。
黒と金を基調にした室内。
柔らかな照明。
暖炉の火。
窓の外には、夜の山と星空が見えている。
そこに、猫耳と尻尾のある女性たちがいた。
美しい女性たちが、甘い笑顔で近づいてくる。
その中の一人が、まっすぐ誠司の前に来た。
猫耳の美人で、スタイルの良い女性だった。
「今日はシングルでお泊まりなのね。寂しいわね」
誠司は少し身を引いた。
「いえ……」
猫耳の女性は、グラスを手にしたまま、誠司のすぐ隣に腰を下ろした。
「無理しなくていいのよ。寂しい時は、誰かに甘えてもいいの」
その声は、やわらかくて甘かった。
女性は、誠司の膝にそっと手を置いた。
誠司の体が、わずかに固まる。
「今夜、私と一晩過ごさない?」
耳元で囁かれ、誠司は息をのんだ。
「僕には……リリアさんがいます」
ようやくそう答えると、猫耳の女性は笑顔のまま首をかしげた。
「あら? でもその女性、リリアさんだっけ? 一緒に来てないじゃないの」
誠司の胸が痛んだ。
リリアは、ここにいない。
竜宮城へ帰ってしまった。
女性は、誠司の手をそっと握った。
「会うこともできない、触れることもできない遠い彼女より、近くにいる温かい私と触れ合った方が幸せだと思うよ」
「……」
誠司はすぐに言い返せなかった。
猫耳の女性は、握った誠司の手を自分の方へ引き寄せようとする。
「大丈夫。今夜だけよ」
その瞬間だった。
「誠司」
少し離れた場所から、煌成の声がした。
誠司ははっと顔を上げた。
煌成がこちらを見ていた。
その目は、静かだったが鋭かった。
「その手を離せ」
猫耳の女性の笑顔が、ほんの少しだけ固まった。
煌成は続けた。
「そのグラスにも触るな」
誠司はそこでようやく、自分がどれだけ追い詰められていたのかに気づいた。
「……すみません」
誠司は猫耳の女性から手を離し、立ち上がった。
猫耳の女性はまだ微笑んでいた。
「残念」
煌成は誠司のそばまで来ると、低い声で言った。
「ここは、迷った瞬間につけ込んでくる」
誠司は小さくうなずいた。
「はい……」
少し離れた場所では、別の猫耳の女性が煌成に声をかけていた。
「あなたも、今夜は一人?」
「僕には奥さんがいるので」
煌成は迷わず答えた。
翔にも、猫耳の女性が近づいていた。
「あなた、優しそうね。少しだけ一緒に飲まない?」
「僕には妻がいるので」
翔もきっぱり断った。
大地の前にも、別の女性が座ろうとした。
「あなた、楽しそうね」
「いや、俺にも彼女いるんで」
大地は少し照れたように頭をかいた。
「早希はああ見えて、女っぽいところあってな」
翔が小さく言った。
「それ、早希に聞かれたら怒られるぞ」
大地は黙った。
一方、女性用ラウンジでも同じようなことが起きていた。
女性用ラウンジには、猫耳の男性たちがいた。
整った顔立ちの男たちが、甘い声で近づいてくる。
その中の一人が、久美子の前で足を止めた。
「君の瞳、綺麗だね」
久美子は驚いて、少し固まった。
「え……?」
「君みたいに美しい子は珍しいよ。君に彼氏がいないなんて、もったいない」
久美子は困ったように視線を泳がせた。
猫耳の男は、さらに距離を詰める。
「猫耳族にならないか? きっと君は猫耳が似合うと思う」
そして、手にしたグラスを差し出した。
「君には、このカクテルが似合うと思う」
久美子はグラスを見つめ、すぐに首を振った。
「いりません」
「本当に?」
「いりません」
久美子はもう一度、はっきり言った。
レイナの前にも、別の猫耳の男が近づいた。
「美しい人だ。今夜、少し話さない?」
レイナは微笑んだまま答えた。
「私には愛するダーリンがいるから」
かすみも、差し出されたグラスを断った。
「私も旦那様がいるから」
早希の前にも、猫耳の男が来た。
「君みたいな元気な子、好きだよ」
早希は腕を組んで答えた。
「私も彼氏がいるから」
その言い方に迷いはなかった。
二時間は、長かった。
断っても、また別の相手が来る。
酒をすすめられ、商品をすすめられ、猫耳族になるプランをすすめられる。
誠司たちは、煌成の忠告を守り続けた。
そしてようやく、強制利用の時間が終わった。
ラウンジの外で合流した瞬間、レイナが大きく息を吐いた。
「あー、何これ疲れたー」
その横で、煌成はすぐにかすみの方へ歩いていった。
「かすみさん、大丈夫でしたか?」
かすみは、煌成を心配そうに見た。
「はい。煌成さんは大丈夫でしたか?」
「僕は大丈夫です」
煌成は静かに答えた。
煌成とかすみが、当たり前のように互いを確認する。
その姿を見た瞬間、誠司の胸が少しだけ揺れた。
リリアは、ここにいない。
同じ頃、久美子もその様子を見つめていた。
誰かにまっすぐ心配されること。
誰かの帰る場所になっていること。
それが、少しだけまぶしく見えた。
その時だった。
誠司の端末が小さく震えた。
久美子の端末も、同時に鳴る。
二人は画面を見た。
【今、心が揺れたでしょ?】
【ラウンジ無料で延長できますよ】
続けて、もう一つ表示される。
【今夜寂しい君へ】
【出張サービス受付中】
誠司は息をのんだ。
久美子も、画面を見たまま固まっていた。
このホテルは、ただ誘っているわけではない。
心が揺れた瞬間を、見ている。
誠司は反射的に端末を伏せた。
久美子も、慌てて画面を隠す。
こんなもの、誰にも見られたくなかった。
誠司は周囲に気づかれないように、すぐにメッセージを削除した。
久美子も同じように、震える指で画面を操作する。
削除。
何もなかったことにするように、二人はそれぞれ端末をしまった。
けれど、胸の奥に残った嫌な感じまでは消えなかった。
その後、それぞれの部屋に戻ると、そこにも罠が用意されていた。
このホテルは、誰にでも同じ罠を仕掛けているわけではなかった。
一人で泊まる者には、寂しさにつけ込むものを。
自分を変えたい者には、姿を変える誘惑を。
夫婦やカップルには、二人の時間を引き延ばす仕掛けを。
まるで、客の心の隙を最初から知っているようだった。
翔とレイナの部屋には、露天風呂とジャグジーが付いていた。
ただし、そこは部屋側から見るとガラス張りになっている。
外からは見えない仕様らしい。
けれど、部屋の中からは開放感がありすぎた。
露天風呂とジャグジーの横には、小さな案内カードが置かれていた。
【ゆっくりカップルで露天風呂へ】
【ジャグジーで疲れた体を癒せます】
【夜景を眺めながら、特別な時間をお過ごしください】
レイナはそれを見て、ため息をついた。
「ここ、ミッションじゃなかったらゆっくりできるんだけどね……」
そして、部屋を見回す。
「まあ、私たちの会社が考えそうな部屋よね……」
翔がレイナを見る。
「どういう意味だ?」
「居心地をよくして、長く泊まりたいと思わせる。過酷なミッションに行きたくなくなるようにするの。前向きに頑張ろうとしている人にも、お酒や恋愛商法や物で、出発する日を伸ばさせる」
レイナは、露天風呂とジャグジーの方を見た。
「こんなの、ミッションに行くの忘れてしまいそうだよね」
翔は静かにうなずいた。
「だから、今日は何も使わない方がいい」
「うん。休ませるためのホテルじゃない。出発させないためのホテルね」
レイナは案内カードを伏せた。
カップルや夫婦の部屋には、特別仕様のパジャマしか置かれていなかった。
レイナはそれを見て、すぐに顔をしかめた。
「何これ? もう服のままで寝るわ」
翔も何も言わずにうなずいた。
「その方がいい」
早希と大地の部屋にも、特別仕様のパジャマが置かれていた。
早希はそれを見た瞬間、顔を赤くした。
「こんなの恥ずかしくて着れない」
大地は少しだけ期待した顔をした。
「早希、着てよ」
「嫌」
早希は即答した。
さらに部屋の奥には、エアロバイク、ランニングマシーン、大きな鏡、ヨガマット、ダンベルまで置かれていた。
大地の目が輝く。
「これ最高じゃん。今夜も筋トレできる」
早希はすぐに大地をにらんだ。
「バーカ。いくら何でも駄目でしょ」
「何でだよ」
「明日は過酷なミッションになるから、煌成さんが体を休めるように言ってたじゃん」
早希は部屋を見回した。
「パジャマも筋トレ器具も、全部罠。こんなの、うちらでも使っちゃだめ」
大地は残念そうにダンベルを見た。
「……ちょっとだけでも?」
「駄目」
早希は即答した。
煌成とかすみの部屋にも、冷蔵庫には飲み物やゼリー、栄養補助食品が並んでいた。
テーブルにはアロマ。
壁には映画や音楽、ゲームやカラオケの案内。
そして、特別仕様のパジャマも置かれていた。
かすみが困ったようにそれを見る。
「どうしよう。これ、着るの?」
煌成はすぐに首を振った。
「罠です」
そして、自分の荷物から別の寝間着を出した。
「かすみさん、僕が持ってきたこれを着て寝てください」
「いいの?」
「はい。こんなことをしていられません。明日は過酷なミッションになるかもしれない。寝ないと」
煌成は端末を手に取った。
「翔と大地にも言っておきます」
すぐに、煌成はメッセージを送った。
『部屋の案内や飲み物には乗らない方がいい。今日は何も使わずに寝ろ』
ホテルは、シングル客だけを狙っているわけではなかった。
夫婦やカップルの気持ちまで、利用しようとしていた。
同じ頃、久美子も自分の部屋に戻っていた。
部屋の中は静かだった。
ベッドの横に荷物を置き、ふと鏡の方を見る。
そこには、猫耳のカチューシャが置かれていた。
「……何、これ」
久美子が近づいた時、端末が震えた。
画面にメッセージが表示される。
【猫耳、つけてごらん】
【きっと似合うよ】
久美子は、鏡の前のカチューシャを見つめた。
続けて、次のメッセージが届く。
【このカチューシャをつけて、似合っていると思ったら】
【本物の猫耳にすることもできます】
さらに、もう一つ。
【今なら特別サービス付き】
【お得なお値段でご案内できます】
久美子は、思わず自分の顔を鏡で見た。
猫耳族になれば、何か変わるのだろうか。
誰かに、もっと見てもらえるのだろうか。
けれど、すぐに端末を握りしめた。
これは、罠だ。
久美子はメッセージを削除した。
鏡の前のカチューシャには触れなかった。
誠司も自分の部屋に戻っていた。
部屋は静かだった。
けれど、テーブルの上に一冊のアルバムが置かれていた。
【男性専用ラウンジアルバム】
表紙には、そう書かれている。
その下には、小さな文字でこう添えられていた。
【寂しい夜、お話をしませんか?】
誠司はアルバムを見つめた。
中には、おそらくさっきの猫ラウンジにいた女性たちのプロフィールや、指名の案内が載っているのだろう。
けれど、誠司は開かなかった。
そのままテーブルから目をそらし、ベッドに横になった。
猫ラウンジの空気も、猫耳の女性に握られた手の感触も、まだ胸の奥に残っている。
その時、端末が小さく震えた。
誠司は画面を見る。
【一人で寂しくありませんか?】
【さっきは、あなたの仲間に邪魔されて残念だったわ】
【今からまた会いたいわ】
誠司はしばらく画面を見つめた。
そして、何も返信せずに削除した。
僕には、リリアさんがいる。
絶対に、早く迎えに行くから。
誠司は端末を伏せ、目を閉じた。
リリアのところへ行く。
そのために、明日も前へ進む。
そう思いながら、誠司は眠りについた。
猫山リゾートホテルの夜。
豪華で居心地のいい場所でしたが、そこには出発させないための罠がいくつも仕掛けられていました。
誠司はリリアへの気持ちを胸に、誘惑を振り切ります。




