第91話 水槽の外へ
マーメイドラウンジの事件を受け、誠司たちは優の疑いを少しでも晴らすため、警察署へ向かいます。
一方、竜宮城へ帰ることを望んだ人魚たちにも、新たな動きがありました。
警察署の空気は、マーメイドラウンジとはまるで違っていた。
白い壁。
硬い椅子。
忙しなく行き交う警察官たちの足音。
誠司は、かすみたちと並んで廊下の椅子に座っていた。
隣には、かすみ。
少し離れたところに、久美子、早希、大地もいる。
全員がここへ来た理由は同じだった。
優の疑いを、少しでも晴らすためだった。
しばらくして、警察官が部屋へ案内した。
机の向こう側に座った警察官は、誠司たちの顔を順に見たあと、静かに口を開いた。
「優さんについて、皆さんが知っている範囲で話を聞かせてください」
誠司は、持ってきた端末を机の上に置いた。
「ここに、俺たちが確認した記録があります。人魚のこと、マーメイドラウンジのこと、優さんが関わった経緯についても、分かる範囲でまとめています」
警察官が端末を受け取り、画面に目を落とす。
かすみも続けた。
「優さんが、以前から人魚と関わっていたという話は、私たちは聞いていません」
「今回が初めてだった、ということですか」
警察官に確認され、かすみは少し考えてから答えた。
「少なくとも、私たちが知っている範囲ではそうです」
早希が、落ち着いた声で続けた。
「もちろん、私たちが知らないことまで断言はできません。ただ、提出した記録を見る限り、優さんが継続的に人魚を扱っていたようには見えませんでした」
大地も頷いた。
「優さんだけを、最初から人魚売買に関わっていた人間として扱うのは違うと思います」
久美子も、自分が知っている範囲のことだけを補足した。
優が、普段から人魚の取引に関わっていたようには見えなかったこと。
少なくとも、自分たちの前でそうした話をしていたことはなかったこと。
知らないことを、知っているようには言わない。
けれど、知っている範囲でなら、優をただの加害者として切り捨てることはできなかった。
警察官は、端末の記録と誠司たちの証言を照らし合わせるように、何度も画面を確認した。
しばらくして、警察官は手元の資料を閉じた。
「皆さんの話と提出された資料は確認します。現時点では、優さんが継続的に人魚の取引へ関わっていた疑いは薄くなりました」
誠司は、思わず息を吐いた。
けれど、警察官の表情は緩まなかった。
「ただし、本人から確認しなければならない点はまだ残っています。優さんには、引き続きこちらで事情を聞くことになります」
「まだ、帰れないんですか」
誠司が聞くと、警察官ははっきりと頷いた。
「はい。今すぐ身柄を解くことはできません」
完全に救えたわけではない。
それでも、優が一方的に疑われたまま進むことは避けられた。
誠司たちにできることは、ひとまずここまでだった。
話が終わり、誠司たちは部屋を出た。
廊下に出ると、張り詰めていた空気が少しだけほどけた。
けれど、誠司の胸の奥には、まだ重いものが残っていた。
優のことだけではない。
リリアのことだった。
誠司は、案内してくれた警察官に向き直った。
「あの……リリアさんには、会えますか?」
警察官の返事は早かった。
「できません」
短い言葉に、誠司の足が止まった。
「リリアさんを含む人魚の方々は、竜宮城側へ引き渡すまで警察の管理下にあります」
「少しだけでも……」
「現在、関係者との接触はすべて制限されています。面会も連絡も許可できません」
きっぱりと遮られた。
誠司は、それ以上言葉を続けられなかった。
会えない。
声も聞けない。
リリアがまだこの街にいるのか、それとももうどこかへ移されたのかさえ、誠司には分からなかった。
ただひとつ分かるのは、今の自分には、リリアへ手を伸ばすことすら許されていないということだった。
その頃、玲司と詩乃は、警察へ提出する資料の追加確認に追われていた。
運営資料。
紹介契約。
紹介料の流れ。
従業員名簿。
勤務記録。
搬入口に関わった者の記録。
警察から求められたものは多く、マーメイドラウンジがただのショー施設では済まされない場所だったことを、嫌でも思い知らされる。
玲司の端末が、小さく震えた。
画面に表示されたのは、CEOからの指示だった。
玲司は黙って画面を開いた。
『マーメイドラウンジの営業停止を確認しました』
詩乃も横から画面を見た。
『玲司、詩乃は、警察対応および後処理が終わり次第、マーメイド事業の担当から外れてください』
続く文面は、あまりにも事務的だった。
『玲司はレオクラブへ。詩乃はアリスクラブおよび新規事業へ集中すること』
『マーメイドエリアの再建は、レイナと翔に引き継ぎます』
詩乃はしばらく画面を見つめたまま、何も言わなかった。
玲司も、すぐには言葉が出なかった。
責任を取らされたのか。
切り離されたのか。
それとも、これもまたCEOの次の配置なのか。
文面だけでは分からない。
けれど、ひとつだけはっきりしていた。
玲司と詩乃は、もうマーメイド事業の中心にはいない。
水槽の中にいた人魚たちの未来は、別の者たちへ引き継がれることになった。
マーメイドラウンジでは、竜宮城へ帰ることを希望した人魚たちの第一便が準備されていた。
警察官が立ち会い、竜宮城側の迎えと確認を取りながら、ひとりずつ名前が呼ばれていく。
その中に、リリアの姿もあった。
ミレナもいる。
キラリもいる。
リリアは、最後まで誠司の名前を口にしなかった。
会いたくなかったわけではない。
会いたかった。
けれど、ここで誠司の名前を出せば、警察はきっと調べる。
なぜ人魚と一緒にいたのか。
どこまで知っていたのか。
ワタルと同じように、人魚に関わった人間として疑われるかもしれない。
それだけは嫌だった。
誠司さんを、巻き込みたくない。
だからリリアは、会いたいという言葉を飲み込んだ。
本当は伝えたいことがあった。
私は、竜宮城に帰ることになりそうです。
もしそうなったら、竜宮城で待っています。
たったそれだけでも、伝えたかった。
けれど、面会も連絡も許可されない。
レイナにも、翔にも会えない。
誰にも伝言を頼めない。
それでもリリアは、信じることにした。
誠司は、きっと約束を忘れない。
いつか必ず、竜宮城へ迎えに来てくれる。
そう信じて、リリアは第一便に加わった。
警察署を出たあとも、誠司はしばらく言葉少なだった。
かすみたちも、無理に話しかけなかった。
優の疑いは少し薄れた。
けれど、まだ警察に残る。
リリアには会えない。
連絡もできない。
何もかもが、少しずつ進んでいるはずなのに、誠司だけが置いていかれているような気がした。
その時、誠司の端末が震えた。
表示された名前は、レイナだった。
誠司はすぐに通話をつないだ。
「レイナさん」
電話の向こうで、レイナの声が少し沈んでいた。
「誠司くん……ごめんなさい」
その一言だけで、嫌な予感がした。
「私、今マーメイドラウンジに戻ったの」
誠司は息を止めた。
「リリアさんは……?」
少しだけ間があった。
「でも、もう第一便は出発してしまっていたわ」
誠司の指先に力が入った。
「リリアさんも……その中に?」
「ええ。リリアさんも、ミレナさんも、キラリさんも。竜宮城へ向かったそうよ」
言葉が出なかった。
会えなかった。
声も聞けなかった。
またね、と言うことすらできなかった。
けれど、リリアはきっと待っている。
竜宮城で。
あの日の約束を、信じて。
誠司は、端末を握りしめたまま、遠くを見るように顔を上げた。
もう、マーメイドラウンジにはいない。
リリアは、水槽の外へ出た。
そして、誠司の手が届かない場所へ向かっていた。
リリア、ミレナ、キラリは竜宮城へ向かいました。
まだマーメイドラウンジの問題がすべて片付いたわけではありません。
それでも、立ち止まったままではいられないので、少しずつ前へ進んでいきます。




